昭和奇行少年記 榊原ようご ■はじめに  「平成」という時代が間もなく終わる。  元号が、イコール一つの時代だと線引きすることはできないけれど、僕の中で「昭和」と「平成」とでは、だいぶ色合いの違う時代だという観念がある。  いまはとても世の中がギスギスしていて、あれはダメ、これもダメ…と、非常に窮屈だ。  何か気に食わないことがあれば、すぐに被害者ヅラして大騒ぎする人が増えた。何とかハラスメントだとか、ジェンダー何とかだとか、カタカナ言葉でことさら物事を大げさに騒ぎ立てる。  公園ではボール遊びも花火も禁止され、風呂屋では痰を吐くな白髪を染めるなと、禁止行為の掲示ばかりがやたら目につくから、身も心もちっとも温まらない。一旦、被害者になればどこまでも賠償などを要求し、まるで「被害者天国」だ。しかし、そうである一方、犯罪者にさえ人権云々と大げさに騒ぐ連中がいて、「加害者天国」といえる側面もある。  相互監視社会に縛られ、あれダメこれダメとひしめき合う、こんなつまらない社会をつくったのはもちろんオールドメディアで、大手新聞や民放テレビはいまなお、ますます世の中をつまらなくし続けている。  こんなつまらない時代だからなのか、近ごろ僕は、もっと大らかだった「昭和」の時代を思い出す。  平成元年で二十歳になった僕にとって、昭和後期は生まれてから成人するまでの歳月であり、あるいは少年時代そのものといってもいい。僕の少年時代は奇行の数々に彩られ、よくもまあ、曲がりなりにも人として生きてこられたもんだと思うほど、出来損ないの少年だった。そればかりか、少年時代の僕は本当に無法者だった。道徳観や倫理観といったものは、社会に出るまでほぼ持ち合わせていなかった。  僕が少年期にやらかした奇行の数々の中には、昭和だから許されたこともあるし、いくら昭和でも許されなかったこともある。少年時代をすごした昭和後期の思い出をたどりながら、僕のしでかした奇行を振り返りながら、また深く反省もしながら、「平成」と「昭和」の違いを考えてみたい。  そして、いまの時代をもっと開放的で、明るいものに変えていくきっかけを探ってみたい。 ? ■キチガイ坊やの通信簿  僕はどうやら、小学校二年生ぐらいまでは本物のキチガイだったらしい。そのキチガイっぷりは、必ずしも小学二年生で終わったわけではなく、成人に近づくにつれ、緩やかに減っていったように思われる。  小学二年生当時の僕の通信簿に、僕のキチガイぶりが克明に記録されている。  僕の通っていた小学校の通信簿には、担任の先生からの「通信欄」があり、そこには手書きで、先生による各生徒への評価が書かれていた。  僕の小学二年生のときの通信欄には、  「この頃は、授業中に素っ頓狂な声を上げて走り出したりすることが減りました」  このように、先生は僕を褒めて下さっている。  ということは、それまでの僕は、授業中に突然、素っ頓狂な声を上げて廊下へ飛び出し、そのままどこかへ突っ走るような子供だったのだろう。それが「減りました」ということは、僕も少しは成長した…と、そういうことなのだろう。僕自身にはそうした記憶がないのだけれど…。  他にも、「授業で手を上げても、指すと何も答えない」とか、「図工の授業では、課題とは違う物を夢中になって作っている」とか、小学二年生の僕の奇行群が、これでもかというほど列挙されている。それらは僕が覚えていることもあれば、記憶にないものもある。  通信欄に書かれたことの他にも、我ながら、「なんであんなことしたんだろう?」ということがいくつか思い出される。  あるときは姉の服を着て母の口紅を塗り、公園で一人で遊んでみたり、歩道橋のスロープをノーブレーキで自転車で滑降し、全身に大怪我をしてみたり、突然、友だちの手を引いて左右の太ももで挟み、強烈な力で締め上げ、相手が泣くまで離さなかったり、あるいは腹が減り過ぎたあまり、石が食べられないか試してみたり…。  そうそう、僕は何でも口に入れてしまうようなところがあって、石をガリガリ噛んだのもそうだし、あるときは教室で新聞紙をグチャグチャに噛み砕いて、さらにそれを指でこねあげ、女子の机に「へい! トロ一丁!」と威勢よく叩きつけ、女子をキレさせたこともあった。  そんなことばかりしていたせいか、僕は小学校の卒業文集に、「舐め舐めチャンピオン」との称号で掲載された。それは確か、クラスの全員が何らかのチャンピオンだと讃えるような企画のページで、「サッカーチャンピオン」とか「習字チャンピオン」とか「ピアノチャンピオン」とか、みんな普通のチャンピオンなのに、僕だけ「舐め舐め」だったのは情けなかった。しかも、まだ小学生なのに…。  確かに僕は、のちに成長してセックスを覚え、本物の「舐め舐めチャンピオン」になった。いまじゃあすっかり性欲も衰えたから、「元チャンピオン」というわけだけど…。  ところで、小学校での六年間を通じて、僕の通信簿には特徴があった。  各科目ごとの五段階評価は、いつだって体育と図工が「五」で、他はぜんぶ「二」だった。その通信簿の通信欄に、僕のキチガイぶり、奇行発動の様子が綴られていた。  僕は割と、幼少の頃の細かいことを覚えている方だと思う。ただ、自分がキチガイだった…という記憶はない。もっとも、一般的にも本物のキチガイというのは、「自分はキチガイじゃないだろうか?」などと悩むことはないらしい。僕もきっと、そんな感じだったんだと思う…。 ? ■ベンチシートのカレー  僕が幼稚園児だった頃、それまでブルーバードに乗っていた父が、グロリアに乗り換えた。  縦目二灯のヘッドライトが特徴的なデザインで、最近では「タテグロ」なんて呼び方もするらしい。ベンチシートもコラムシフトも珍しくて、僕は興奮し、子供ながらにすごく高級な車なんだろうと思った。  当時、我が家の恒例として、お盆とお正月には、母方の実家にいく風習があった。周りでもそういう家庭は多かった。  母にとっては里帰りだし、子供である僕たちにとっては、「おばあちゃんち」への小旅行だった。その間、家族で父だけが一人、四国へ出張するのもほぼ恒例となっていた。  ある年の暮れ、グロリアに乗って栃木の母の実家へ行くことになった。父は車を使わず、飛行機で四国へ行っていた。  「もう出発するから、車で待ってなさい」  僕たち姉弟に対して、母はいつもそう急かした。でも、母自身が実はまったく準備が追いつてなくて、いつもそこからが長かった。それもまた、我が家の慣例となっていた。  その日、僕と弟は先に車に乗った。姉はまだ、母の用意に時間が掛かると知っていたので家の中にいた。きっと母はまだまだ準備がかかるだろうけど、新しいグロリアに乗れるだけでも楽しかった。そのうえ、おばあちゃんちに行けるものだから、僕たちはすごくワクワクしていた。早くこの高級車に乗って、おばあちゃんちに行きたい。せっかくだから、珍しいベンチシートに座ってみようと、僕と弟は助手席に乗った。  「ここにカレーがこぼれてるよ?」  僕は弟にそう言って、ベンチシートの上にこぼれているカレーを指差した。不思議なことに、ベンチシートのカバーの上に、スプーン一、二杯程度のカレーが、とろりとこぼれていた。  僕はそれを指でカレーをすくい、口に含んでみた。  「あれ? カレーの味がしない」  僕の不思議そうな声につられて、弟もカレーを指ですくい、舐めてみた。  「本当だ!」  僕たちはそのようにして、カレーの味がしないカレーを、不思議がりながら、すべて指ですくって食べた。  成人してのち、「あれはカレーではなかったのではないか?」と思うことがあった。  あの日から十数年、ふいにあの光景を思い出しては、僕は不思議に思っていた。でも、心のどこかで、何となく答えがわかるような気もしていた……。  二十代のいつだったか忘れたけれど、弟と酒を飲んでいるとき、その答えが判明した。  「お前、覚えてる?」あの日の記憶について、僕は弟に切り出してみた。  「あの時のカレー、いま思えばカレーじゃなかったんじゃないか?」  「そうだよ」弟は、こともなげに答えた。  「あれきっと、ルルのウンコだよ」弟はきっぱりと言い切った。  やっぱりそうだったか……!!  カレーだと思われるものを夢中ですくって食べたあの頃、我が家では「ルル」という名のマルチーズを飼っていた。  車は両親が共用していて、父が仕事で乗ることもあれば、母が私用で乗ることもあった。母はよく、ルルを連れて出掛けていた。きっとあの日に、あるいはその前日かに、ルルはタテグロのベンチシートに、下痢グソをたれたのだろう。ちっともカレーの味がしないカレー状のペーストをもって、不自然にも「カレーがこぼれている」などと考えるよりも、飼い犬が下痢グソを漏らしたと考えた方が、はるかに説得力がある。  実は薄々、僕はそうではないかと考えていた。ただ、自分でそれを認めるのが怖かった。  実は弟も、ほとんど僕と同じような思考の過程をたどったらしい。ただ弟の方が、僕よりも少し早く答えを出した。「ルルの下痢グソ説」で結論づけ、自分なりに納得したようだった。  でもまだ、僕には認めたくない気持ちが残っている。「ルルの下痢グソ」以外のなにかであったて欲しいという、女々しい望みを捨て切れずにいる。…というより、あの記憶そのものを、できれば頭からデリートしたいというのが正直なところだ。 ? ■交通安全とグローブ  小学二年生のとき、学校の図工の授業で、交通安全のポスターを描くことになった。  僕は絵を習っていた割にはあまりうまくなかったけれど、たまたま僕の描いたポスターが入賞してしまい、自分でもすごく驚いた。  当時の僕の家の隣には、画家とその家族が住んでいて、近所の子供たちを集めては、お絵描き教室などもやっていた。僕ら姉弟も、隣近所の義理というのもあって、そこに通っていた。僕は何をやっても不真面目な少年だから、お絵描き教室でさえ、よく叱られていた。  あるときそのお絵描き教室で、油粘土を丸めて天井に向かって投げ、落ちてくるのをキャッチする…という、単純な一人遊びに没頭していた。粘土玉を投げては捕って…と繰り返すうち、一球だけうっかり軌道がそれてしまい、たまたま水彩画をしていた女子の水入れの中に、ボチャンと落ちた。  水入れは筆を洗うためにあるものだから、色んな色の絵の具が水に混じっている。その濁った水が、その女の子の顔や服に盛大に飛び散った。僕はすぐさま「ごめん」と思ったものの、小学校低学年であろうその女子の汚れっぷりがおかしくて、ついゲラゲラと笑ってしまった。心では謝りたいと思うのに、おかしさに負けてしまったのだ。  その数秒後のことだ。  「ガンッ!」  僕の頭のてっぺんに、激痛が走った。めまいというものを経験したのは、おそらくあれが初めてだったと思う。本当に、気を失うかと思うほどに痛かったし、頭がクラクラした。  「すぐに謝れ!」  大喝されて後ろを振り返ると、普段は極めて温厚な絵の先生が、鬼の形相で僕をにらみ据えていた。  頭がまだクラクラしていた僕だけれど、その剣幕に圧倒され、すぐに立ち上がって女子の前に行き、「ごめんんなさい」と謝った。  「これでいいッスか?」って感じで先生の方を振り返ると、その右手には、プロの絵描きが使うのであろう筆が、僕らの使う筆の何倍もあるようなぶっとい筆が、四本ほどまとめて握られていた。  (あれで殴られれば、そりゃあ気を失いそうにもなるよ)  まだフワフワする頭で、僕は激痛の理由を理解した。  そんな僕だったので、決して絵が飛び抜けてうまいというわけではなかった。でも、図工はいつでも「五」だったから、平均よりはうまい方だったのかもしれない。  その僕の描いた、交通安全のポスターが入選した。絵の選定は地元の警察署で行われ、入賞者はその警察署で表彰されることになっていた。  入賞した僕のポスターはごく簡単な構図で、交差点の横断歩道の前で、小学生が信号待ちをしている。ただ、それだけだった。特にメッセージ性がある構図でもなく、絵の技術的にも、ごく平凡だった。  僕は警察署に招待され、警察署長かなんかから表彰された。表彰状と粗品のような物をもらったような記憶がある。僕はまだ子供だったから、母が一緒に付き添ってくれた。  その帰りに、母が入賞の理由を分析して聞かせてくれた。いわく、僕の描いた信号待ちの少年は、右手だけが異様にデカい。それが、「信号を渡る時は右手を挙げなければいけませんよ」と、交通安全の大切さを児童たちにアピールしている…と解釈されたのだろうということだった。それを聞いた僕は、おかしくてゲラゲラ笑った。まさかそんな、高尚な考えが僕に思いつくわけがない。 (単なる僕のミスなのに、大人って面白いことを考えつくもんだなぁ…)  それでも母は喜んでくれて、家までの帰りに立ち寄ったデパートで、「好きなもの買ってあげる」と言ってくれた。  「じゃあ、グローブとボール!」  僕は思わず、甲高い声で叫んでしまった。僕は野球が好きだったけど、プロ野球を観たり、ビニールのカラーボールで手打ち野球をするぐらいしかできなかった。グローブを持っている同級生は何人かいた。それが僕には羨ましかった。僕は小さい頃から、「うちは貧乏だから」という母の言葉を聞いて育った。その枕詞の先には、「だから我慢しなさい」という悲しい決まり文句が待っていた。シャーペンが学校で流行ったときも、クラスで僕だけが鉛筆のままだった。母にいくらねだっても、シャーペンは買ってもらえなかった。隣の席のクラスメイトが、シャーペンの芯一本だけを僕にくれた。芯だけでもどうにか使えないかと色々と試したけれど、指が汚れる以外に何もできなくて、僕は泣きたかった。そうしたことが、当時はザラにあった。…だけど、この日だけは話が別だ。好きな物を買ってもらえるんだ!  デパートの一階にスポーツ用品店があって、僕はそこでじっくりとグローブを選び、ボールとセットで母に買ってもらった。母はせっかくだからと、ジャイアンツの帽子も買ってくれた。ものすごくワクワクした気分で、僕は母と一緒に家に帰った。  この日にグローブを買ってもらったことによって、僕は本気で野球をやろう心に誓った。実際、この数カ月後に、僕は地元のリトルリーグに入団した。  もし、野球を本気でやっていなかったら、僕はどこまでも、キチガイ少年のままだったと思う。  描き損じたポスターが、僕の人生を少なからず変えた。人生ってやつは、わからないもんですなぁ…。 ? ■ハニーテイストな蜂の墓  まだ首都高五号線が高島平まで通じていなかった頃、小学校低学年だった僕は、その開通予定地でよく遊んだものだ。  周囲にはまだ自然が多くて、例えば、地元で「ゴリラ山」と呼ばれる丘があった。なぜそう呼ばれているのかわからないけれど、大人でも子供でも、「ゴリラ山」と言えば通じた。その丘のふもとでは、貝類や植物の化石がよくとれた。粘土層になっていて、むき出しになったその断面には、「地層」というものをありありと見ることができた。  その近くに洞窟の入口があって、小学生の僕らでも這って通らなければならないほどの狭さだけれど、中に入ると意外に広くて、しかも、トンネル状の穴が複数に分かれ、ときにつながり、蟻の巣のような構造になっていた。結構な広さのエリアもあって、僕は友だちとよく洞窟探検をしたり、中でお菓子や缶詰を食べて、サバイバル気分を味わったりした。  ただ、その洞窟ではよく、浮浪者が死んだりした。よく覚えていないけれど、二、三人はそんな死亡話を聞いた記憶がある。浮浪者が死ぬと、警察が入口を土で埋めてしまう。だけどまたしばらくすると、誰かが掘り起こして入口を復活させる。それを噂に聞くと、また僕たちは遊びにいく。そのうちまた、よそからきた浮浪者が死ぬ。そんな感じだった。  ゴリラ山から道を挟んで向かいには、赤塚城の城跡がある。そのふもとには溜池公園があって、僕はそこでよく釣りをした。鯉やナマズが釣れると言われていたけれど、子供の僕が持っている道具では、クチボソやタナゴしか釣れなかった。  そんな環境に囲まれた首都高の予定地は、草が生え放題の空き地だった。そこで僕が特によくやったのが虫捕りだった。バッタやトンボ、蝉や蝶々などを何種類も捕まえた。僕はその頃、母からよく「お前はホント、虫キチガイだね」と言われた。確かに一時期、取り憑かれたように虫を捕っていた。捕まえた虫は家に持って帰り、図鑑で名前を調べたりした。あの頃の僕は、結構、虫に詳しい少年だった。基本的にキチガイ少年であった僕は、さらに虫キチガイでもあったわけだ。  そんな時期に僕は、新たに取り組むべきジャンルとして、「蜂」に注目してみた。  予定地の空き地には、色んな種類の蜂が飛んでいた。ミツバチやアシナガバチはもちろんのこと、本来は山とか林にいるスズメバチとかクマンバチとか、そういうのも飛んで来ていた。ゴリラ山とか赤塚城とか、周りの林から飛んで来たんだと思う。蜂も意外と種類が豊富なのだと気づき、興味を持った。  ある日、蜂を徹底的に捕まえようと考えた僕は、虫かごと虫取り網を持って家を出た。首都高予定地を歩き回り、様々な場所で様々な蜂を捕まえた。虫取り網を使い、蜂の種類ごとに一匹ずつ捕まえていった。すると驚いたことに、一日で八種類もの蜂を捕まえることができた。なぜ八種類だと覚えているかといえば、「蜂が八」なんて、小学生のくせして駄洒落を思いついてしまったからだった。  さて、八種類の蜂を家に持ち帰った僕は、「あんたそんなものどうするの? 家の中で飛ばしたりしないでよ」という母の冷ややかな声には耳を傾けることもなく、まっすぐに自分の部屋に向かった。  図鑑を広げ、一種類ずつ丹念に調べた。一種類だけ、図鑑で見つけられないのがあった。それは捕まえた蜂の中でも一番デカいやつで、土の地面にあいた直径一センチぐらいの穴から、出たり入ったりしていたやつだった。形もサイズもスズメバチに似ているけど、全身が真っ黒だった。そいつが何者かは明日にでも調べようと思い、それよりこいつらの餌って何がいいのかな?と、僕はそっちが気になりだした。  こういうところが当時の僕のキチガイっぽいところで、何でも思いつきで行動してしまう。そもそも、蜂を八種類も家で飼おうなんて、本気で思っていたかどうか…。当時の僕自身もわかっていなかったと思うし、とにかく蜂に餌をやらないと…と、そう思いつくと、そのことだけに夢中になった。  餌を与えるにあたって、僕はまず、八種類の蜂をまとめて引っ越しさせた。虫かごから、何を思ったかミロの空き瓶に移し替えた。「ミロ」というのはココアに似た粉末で、それを牛乳で溶いて飲むと、ミルクココアのような味がするうえに、子供の成長にもよいとされていた。その空き瓶に僕は、どうやったのか蜂たちを移したのだった。いまもって不思議だけれど、あの日、僕は一度も蜂に刺されなかった。空き地で捕獲し、虫かごに入れ、さらにミロの空き瓶に移し替えたというのに、一度も刺されることはなかった。ただ覚えているのは、僕にしては珍しく、非常に慎重に蜂を扱ったということだ。刺されなかったのはそのためだと思うけれど、やっぱりキチガイ少年のやることはズレている。僕は何を思ったか、ミロの瓶にハチミツを流し込んだ。「蜂の餌といえばハチミツに決っている」そう安易に結論付け、僕は蜂たちによかれと思ってハチミツを与えたのだった。  翌朝、ミロの瓶の中で、八種類すべての蜂が死んでいた。どっぷりとハチミツに浸かった状態だった。子供は残酷だといわれるけれど、あの日の僕も残酷だった。残酷になれるのは、無知だからだと思う。でも、蜂たちの死骸をみたときは、さすがに申し訳ないことをしたと反省した。ハチミツ漬けの蜂たちをみて、もう少し何か考えてやれば、死なせずに済んだだろうとも思った。僕が殺したも同然なのだから…。  ところで、蜂と母という接点で、思い出したことがある。  この時期から数年して、僕たち家族は浦和に引っ越していた。ある夜、静かだった家の中で突然、母の悲鳴がとどろいた。  悲鳴が聞こえたのは一階からで、姉、僕、弟の三人は、二階のそれぞれの部屋でその声を聞いた。三人ともすぐさま部屋を飛び出し、何事かと一斉に階段を駆け降りた。  母は風呂場の前に立っていて、風呂上がりでバスタオルを身体に巻いていた。聞けばタオルで身体を拭いていたら、突然、蜂に刺されたという。その日に干したばかりのバスタオルだから、天気のよかった日中、バスタオルの中に蜂が入り込み、取り込まれてもそのまま潜んでいたのだろうということだった。  「誰か早く針を抜いて毒を吸ってよ」  母は痛みをこらえつつ、僕たちに懇願した。  「ここだから、ほら」  指差したのは、胸の脇だった。  僕たち三人は、一瞬だけ互いの顔を見合わせたのち、それぞれすぐに下を向いてしまった。僕自身も、どうしたものかと困ってしまった。姉は僕の一つ上だし、弟は僕の二つ下で、要するに三人とも思春期にあった。思春期の少年少女が実の母の胸を吸うという図に、どうにもやり切れない気持ちになった。  「蜂に刺されたからって死ぬわけじゃないし…ごめん」  僕たち三人は、母に申し訳ないという気持ちで一杯だったけれど、そのやり切れない思いを抱え、うつむいたまま、それぞれの部屋に戻っていった。 あの時どうすることが正解だったのか、いまでも僕には、その答えがわからない。 ? ■ウンコ漏らしビギニング  僕はウンコを漏らすことが多い。特に二十歳以降は、“勘違い”で漏らすことが増えた。  その勘違いパターンの最初は、二十歳の夏だ。当時の婚約者と、国道沿いを歩いていたときだった。  「すんげえでけえ屁が出るぜ」  腸内に大規模な屁の存在を感じた僕は、得意げに宣言しつつ片足を上げ、半ケツが浮いた状態で、思い切りいきんだ。  だが次の瞬間、「ゲッ!」と叫んでしまった。どデカい屁の音が響くはずが、音がしない代わりに、パンツにビチグソがほとばしる勢いを感じたのだ。  「まずい。お前、ちょっと見張ってて」  そう婚約者に告げると、僕は歩道のすぐ脇にあった建物の隙間に逃げ込み、ズボンとパンツを脱いだ。漏れたビチグソはおびただしい量で、完全にズボンまでいかれていた。とはいえ、まだ家まで歩いて十五分はかかるし、道中は車の通りも多い。ノーパンのまま、歩いて帰るわけにはいかない。僕は泣く泣く汚れたズボンを履きなおすと、婚約者の後ろに隠れるようにして、人目に怯えつつ家に帰った。パンツの方は、その場に放置した。  このときを皮切りに、こうしたケースを何度もやらかすことになった。特に、一人で車を運転しているときなどが多い。車内には僕一人しかいないから、人目も気にせず屁をこいたって何ら問題ない。そう思って屁をすると、屁じゃなくてビチグソ。そんな失敗を何度やらかしたことか…。  でもさすがに、場数を踏んできたいまでは、だいぶこうした失敗は減った。それでもまだ、たまにやらかしてしまうことがあるし、さらには四十代後半に入ったあたりから、ただ普通に歩いているだけなのに、ふいに「ピュッ」と小規模なやつが漏れるケースも出てきた。これは“勘違いパターン”ではなく、加齢による肛門の経年劣化が原因だと僕は考えている。  そうした大人のパターンとは違って、子供の頃のウンコ漏らしは主に、「我慢できなくて」というのが多いように思う。少なくとも、僕の子供の頃はそうだった。  よくあったのが、下校途中で漏らしてしまうケースだ。子供の頃はどうしたわけか、ウンコを催した瞬間、すでに限界近くに達していることが多かった。「ウンコしたい」と思った時点で、すでにカウントダウンが始まっている。催せば即ち限界だから、すぐさまパンツの中に出すことを決意しなければならなかった。僕は両足を左右に大きく開き、ウンコが尻につかないよう、パンツの中に空間を作る。その空間に向けて、ウンコを落下させる。そのあとの帰路では、できるだけ大股で歩く。これも、ウンコがなるべく身体に触れないための工夫だ。人から見れば、コンパスの二本の足を、交互に前に出して進んでいるような、およそ不自然な歩き方だ。実際、すれ違った大人が、気の毒そうな顔で僕を見ていた記憶もある。でも、大人のそういう視線というのは、当時の僕にとっては慣れっこだった。  そんな僕と同じ血を引くからだろうか、僕の弟もかつて、かなり際立ったウンコ漏らしをやらかしたことがある。弟が小学二年生ぐらいの頃だった。  僕らの通う小学校では、通学時に「学帽」という半球状をした帽子をかぶる規則になっていた。ある日、弟はビチグソまみれの学帽を持って帰ってきた。さすがに被ってはいなくて、帽子を手に持って帰ってきた。茶色に染まった学帽は猛烈に臭く、弟がウンコを我慢し切れず、やむなく学帽でビチグソを受けたであろうことは一目瞭然だった。確かに、学帽の内側を容器に見立てれば、なるほど、ビチグソを受けるのに打って付けだと思えなくもない。  ところが驚いたことに、弟はこれを「ウンコじゃない」と否定した。そればかりか、ウンコだと疑われるのは心外だとでも言いたいかのごとく、ふてくされてみせた。その場には僕と母と姉がいて、この弟の反応に、僕らは静まり返ってしまった。誰がどうみたって、ウンコじゃないはずがない。なぜ弟は、この厳然たる事実を否定するのだろうか…?  「給食のカレーがこぼれたから、オナラを引っ掛けた」  この臭いはオナラじゃなくてビチグソだろう…などと突っ込みだしたらキリがないほど、無茶苦茶な言い訳をかました弟に対し、僕は「バッカじゃねーの!」と笑い、母はすごく悲しそうな顔をしたまま、黙って弟の顔を見つめた。その脇から姉が一言、弟に向かって冷静に言い放った。  「今日の給食、カレーじゃなかったよ」  …そうだ。給食はカレーじゃなかった。姉、僕、弟の三人は、もちろん同じ小学校に通っている。給食の献立は、もちろん全生徒共通だ。痛々しい言い訳によって、さらに自らの立場を悪くした弟は、この姉の一言にはぐうの音も出なかった。さっきまで笑っていた僕は、弟が少し可哀想になった。  あの時の弟の心境は、五十歳を迎えようといういまでも、僕には十分理解できる。ウンコ漏らしというのは、悲しい生きものなのだ。 ? ■ノートにぽろり  小学校三年生のときの出来事。  ある日の授業中、机を並べる隣の女子に、肩をツンツンと突かれたので僕は振り向いた。  その教室では、男女一対が机を並べる決まりになっていた。男子の僕は右側で、ピッタリと机を並べて左隣に女子がいた。  彼女は半身を僕に向け、左手の人差し指で自分の左耳を指差し、何かを伝えようと口を動かしていた。授業中だったので、声を出すのを憚り、口パクで何かを訴えようとしていた。  (耳がどうかしたのかな?)  やおら僕は、左手の人差し指で自分の左耳を触ってみた。すると、ボロボロと何か赤黒いものが、白いノートの上にこぼれ落ちた。  「……ん?」  僕は自分の耳から落ちてきた物体を凝視し、しばらく考え込んでしまった。  少し考えてみたのち、やがて僕は理解した。その物体は明らかに、凝固した血液だった。それは子供にでもわかった。そして僕は、前日の出来事を思い出した…。  その前日、僕はいつものように母に叱られていた。日常的なことなので、なんで叱られたかは覚えてない。ただその時、説教を聞く僕の態度が悪かったか何かで、母は怒って僕の左の耳たぶをひねり上げた。  「わかったよ」とか「ごめんなさい」とか、僕はテキトーなことを言って許してもらったと思う。確かにあのときは耳が痛かった。でも、血が出るほどのこととは思いもしなかった。  母は割りとすぐに手が出る方…といったら誤解されそうだが、要するに、回りくどい説教をたれて時間を無駄にするより、手っ取り早くげんこつで教える。そんな感じだったし、僕らもその方が飲み込みが早かった。  母の名誉のためにもう少し説明しておくと、あの当時、いまみたいに「虐待」とか「ネグレクト」とか、そういうのはなかった。でも、しつけや教育に、暴力は当たり前に使われた。いや、暴力というのか、折檻というのか、おしおきというのか、とにかく、「こらっ!」っと鉄拳をもって瞬時に理解させ、反省させ、そうして子供は善悪を学ぶものだった。それがあの当時は、ごく普通の教育だった。  例えば、友だちの家に行っても、その家の母親から同じように“教育”されたものだった。泥だらけの足で家に上がったら、友だちともども、そのお母さんからイヤってほど靴べらで尻を叩かれたりした。自分の子供だろうが、子供の友達だろうが、その家独自の道具や方法をもって叱られたものだった。 「痛い」→「悪いことをしたからなのだろう(よくわからないけど)」→「また痛い目に遭うのはごめんだから、二度と同じことはしないようにしよう」 そんな感じで、昭和後期の子供たちは育ったのだった。  学校でもそれは同じだった。僕が小学校六年生の五月に転校した先の担任の先生は、「尻ペタ」という、自ら考案した方法で僕らを罰した。日教組の熱心な組合員でもあったその先生は、長さ一メートルほどの大きな定規で、僕たちの尻を容赦なく折檻した。あれは本当に痛かった…。  話を戻す。  「耳、真っ黒だからビックリして、最初、小さい声で話し掛けたけど、聞こえなかったみたいね」  隣の席の女子は、授業が終わると僕にそう言った。隣の女子の小声すら聞こえないほど、僕の左耳は血の塊に塞がれていたようだった。  僕は、「野球の練習のときにぶつけたのかな」とか曖昧なことばで誤魔化し、「お母さんに耳をひねり上げられた」だなんて、本当のことを話すことはできなかった。 ? ■音読と日記  僕は小学生の頃、日記や感想文をよく先生に褒められた。何年生だったか覚えてないけれど、日記を書いて提出するのが毎日の義務となっていた時期があった。担任の先生からみてよくできた日記があると、「帰りの会」で先生自らが音読して生徒に聞かせた。僕は国語の成績は悪かったけれど、なぜか日記だけはよく読まれた。大人になったいまも文章を書く仕事をしているし、それは日記を書いた日々と、無関係ではないと思っている。  教科としての国語の通信簿はいつも「二」なのに、なぜ僕は日記などの評価が高かったのか? それは多分、「音読」にあると僕は考えている。  小学生の頃、母はよく僕に、国語の教科書を音読させた。  その情景を、僕はいまでもよく覚えている。  僕は家の階段の、下から二段目あたりに座り、国語の教科書を開いている。眼の前には台所があって、母がそこで夕食の支度をしている。僕は母の背中に向かって国語の教科書を音読した。それは母からいつも言われてしていたことで、「どうせ宿題をしないなら、せめて音読でもさせよう」と、母なりに僕の学力を高めようと考えたのだと思う。それに、国語の教材を音読させるぐらいなら、夕食の支度をしながらでもできるだろうし…。  母はテキトーに聞き流している場合も多かったけれど、たまに「そこもう一度読んでみて」とか、「それはどういう意味?」とか突っ込むので、僕としても真面目に読まざるを得ない。意味もちゃんと理解しなければならない。このようにして、真面目で真剣な音読を繰り返したことによって、多少は文章力が向上したのだと思っている。そう確信が持てるだけの経験と、僕なりに確立したロジックがある。  「音読」というのは、  目で見て情報を得る  理解した情報を声に出す  耳から再び情報を得る  脳内で情報を再確認する  この、[入力]→[出力]→[再入力]→[確認]というループが、深く頭脳に情報を刷り込むのだと僕は考える。このループを重ねて体験することにより、文章の読解力や理解力を高めるのだと思う。  このロジックに僕が自信を持っているのには、もう一つの実体験がある。  実は僕は、中学生時代(だけ)は英語の成績が優秀だった。テストはほとんどいつも満点だったし、英語の発音を競う「スピーチ・コンテスト」というやつも、中学一年生の時にクラス代表に選ばれたぐらいだ。これも実は、「音読」による成果だと僕は確信している。  中学一年生になって、初めて「英語」という教科を学び始めた時、教室でカセットテープの教材が販売された。これは、教科書の内容を外国人がネイティブな発音で朗読するというもので、教科書を読みながらテープを聞き、さらに自分でも音読して英語力を身につけるというものだった。売り物だから強制ではなく、希望者のみが購入する教材だった。  僕はこれが是非とも欲しかった。当時の僕は、英語で喋れるようになりたかった。英語が喋れる日本人に憧れたし、小林克也なんかも尊敬していた。  それで僕は、母にねだってそのカセットテープを買ってもらった。「買う以上は絶対に最後までやりなさい」と言われたけれど、言われなくても夢中で聞き、そして夢中で音読した。その甲斐あって、いつも英語のテストは満点が取れたし、これには母も満足そうだった。  中学二年になると、もはやカセットテープを買う必要はないと考え、ただ音読だけを繰り返した。それだけで十分に英語の教材を学習できた。このようにして、僕は中学校の三年間、英語だけはトップクラスの成績をおさめることができた。これも間違いなく、「音読」の効果だと確信している。  英語の授業で思い出したエピソードがある。  中学二年生だったと思う。その頃、僕はビーチクの絵を必死に練習していた。本宮ひろ志の「俺の空」かなんかで見たビーチクの絵に、「これなら俺にも描けそうだ!」と興奮し、ノートに何度も真似て描いて練習した。  そのビーチクというのが特徴的で、真ん中が窪んで「m」みたいな形をしていた。そしてそのビーチクは上を向いていた。女性が仰向けに寝て、胸を揉まれるシーンの絵だったからだ。  ある日、僕は得意げに教室の黒板にそのビーチクを描いてみた。ようやくビーチクの絵をマスターしたと自信がついたので、クラスのみんなに披露したくなったのだ。「m」の周囲には、ちゃんと乳輪も描いた。そして、休み時間は終わった。  次の授業は英語だった。英語の教師は教室に入るなり、黒板をみて「なんだ、『Hat』じゃないか。なかなかうまく描けてるな」言うなり僕たち生徒の方に振り返って言った。 「はい、Repeat after me! Hat!」。  僕ら生徒は吹き出しそうになった。確かに、上を向いたビーチクには、乳輪という帽子のツバの部分があり、真ん中の窪みなんかはウエスタンハットにそっくりだ。英語教師の勘違いによって僕も初めて気づいたのだけれど、中学一年生の英語の教科書に載っていた、帽子(Hat)の絵にそっくりだった。  僕らはクスクス笑いながら、「Hat」の発音に付き合った。  英語の先生は職業柄、あの絵を瞬時に「Hat」だと認識し、まさかビーチクだとは思わなかったようだ。偶然の産物であるそのエピソードは、瞬く間に学年中に広まった。 ? ■インベーダーと未来の大泥棒  伝説の人気ゲーム「スペース・インベーダー」が大流行したのは、僕が小学五年生のときだった。  最寄りのゲーム機は近所のおもちゃ屋さんにあって、その軒先には連日、アーケード型のゲーム機の前に列をなす子供たちの姿があった。  「お! また三百点UFOが出た!」、「あいつ、名古屋撃ちがうまいな」などと興奮しながら、自分の順番を待ったものだった。当然、僕もその列に混じっていた。  ゲームには「三百点UFO」や「名古屋撃ち」などの技があって、上級生などが得意げに新しい技を披露すると、僕らは「あれ、俺もやってみたい!」と興奮し、たまらなくインベーダー・ゲームがやりたくて仕方なくなる。とはいえ、小学生の小遣いなど知れているから、好きなだけやれるわけではない。ちなみに、一回のプレイ代は百円だった。  やりたいけど次のお小遣いまで我慢しよう…と思っても、友だちが次々に最高得点を更新していくようすなどをみると、ゲームがやりたくてやりたくて、気が狂いそうになった。その衝動は激しく、自制するのに苦労した。そんな日々が続いたある日、僕はついに、母の財布に手を出してしまった…。  金額は一万円。小学五年生にとっては現実離れした大金だし、僕も随分と思い切ったものだった。一万円だとすぐにバレるかもしれない。けれどそのときの僕は、どうしても我慢できなかった。千円とか二千円とか、バレなそうな金額で妥協することができなかった。当時の僕は、完全にインベーダー中毒になっていた。いや、インベーダー・キチガイといった方がいいかもしれない。  ともかく、大金を手にした僕は、早速、例のおもちゃ屋さんに走った。やはり、数人の友だちがすでにインベーダー・ゲームに興じていた。僕は特に仲のいい友だち数人に、ゲーム代を大盤振る舞いした。ほんの数時間で、僕たちは五千円をプレイ代に費やした。それでもまだ、僕には五千円が残っている…。  翌日の学校で、お昼休みに職員室へ呼び出された。担任の先生は、すでに僕の母も呼び出していた。昨日、僕がゲームを奢った友だちの誰かが、罪の意識からか、先生にチクったらしかった。小学生なんてそんなものだから、僕はチクッたのが誰かなどには関心がなかった。それより、ひたすら母に対して申し訳なかった。  インベーダー・ゲームは、学校で禁じられていた。僕はそれを犯したばかりか、実の母親から一万円もの大金を盗んでいる。当然、大目玉を食らった。残った五千円も、その場で回収された。さらには母も担任の先生も、「これは将来、大泥棒になるのではないか?」と、極めて深刻に僕の将来を危ぶんだ。  確かに、僕はその後も手癖が悪く、親の金にこそ手を出さなかったものの、高校二年生ぐらいまで、万引きなどをしてしまった。当時のお店の方、すみませんでした。  インベーダー・ゲームに関しては、もちろんその後も病みつきのままだった。  そんなある日、友だちから“裏技”というか、不正な方法を用いて、ただでインベーダー・ゲームをやる方法を聞いた。  それは、放電して着火させるタイプの百円ライターから、放電する部品だけを取り出し、あの「カチッ」と出る電気の火花を、ゲーム機のコインを入れる穴に流す、という方法だった。  うまくゲーム機内部に電気が流れると、一瞬、画面が揺れて画像が乱れる。すぐに画面は元の状態に戻るが、その時、画面左下にあるクレジットは「99」に増えている。これは、ゲームを九十九回できることを意味する。その友だちは、どこからかそんな裏技を教わってきたのだった。  ただ、例のおもちゃ屋さんでそれをやれば、すぐに大騒ぎになるのは目に見えている。ゲームの順番を待つ大勢の子供たちがいる前で、堂々と不正行為をするわけにはいかない。あるいは仮に、そこにいる全員で、その秘密の行為とゲームをする権利を共有したとしても、お店の人にすぐに見つかってしまうだろう。それ以前に、そこは僕にとって大好きなおもちゃ屋さんだったから、お店の人に悪いと思った。  ちょうどタイミングよく、町はずれにあるパチンコ屋の隣に、「インベーダー」と書かれたゲームセンターが開店した。そこはパチンコ屋の店員が、順番でテキトーに店番をするだけだった。ゲーム機もアーケード型ではなく、テーブル型だ。そこなら不正が見つかりにくいし、チャレンジする価値はある。早速、僕と友だちはそのゲームセンターで、“秘策”を試すことにした。  友だち自身も実は、その方法を実際に試したことはなかったらしかった。でも、友だちが聞いてきた通りに電気を走らせると、聞いてきた通りにクレジットが「99」になった。あまりにもあっけなくて、僕たちは拍子抜けしたぐらいだった。それと同時に、なんだか少し怖くなった。  僕たちは店の一番奥で、一番目立たないゲーム機を選んでいた。でも、万が一にも店員が見回りに来たら、たちまち「99」という異常なクレジットは見つかり、僕たちの悪事がバレてしまう。  そこで、僕たちは一計を案じた。ゲーム機は二人が対面して座れる構造になっていて、二人で交互にゲームができる仕組みになっている。僕らも最初から、二人で交互にするつもりだった。そこでまず、お互いにわざと自機を殺し、つまり、インベーダーの攻撃にわざとやられ、クレジット数を常識的な数に減らしてから、あとは存分にゲームを楽しもうという作戦だ。  僕たちは互いに、早死にを競った。小学五年生二人の合計の所持金として、三千円ぐらいなら不自然ではないだろうと判断し、クレジットが「30」になるまで死に続けることにした。画面のクレジットの部分には、それぞれ銀色のアルミの灰皿を乗せて隠した。もし店員がきても、これならすぐにはバレないだろう。  しかし、この作戦は意外に面倒だった。一度のプレイでは、それぞれ三度ずつ死なないとゲームが終わらない。実際にやってみると、これがなかなかはかどらない。自分のお金でやっているときは、一つでもあれだけ尊かったクレジットが、わざと減らそうとすると、不思議と一向に減らないように感じられた。僕たちはだんだんイライラしてきたので、僕から次なる作戦を提案した。  「どうせ灰皿でクレジットは見えないじゃん? で、コンセントを抜いたらクレジットはゼロに戻せるじゃん? ってことは、このままやりたいだけゲームをやって、帰る時にコンセントを一度抜けばいいんじゃん?」  「それいいね。じゃあ、次から真剣にやろう」  早死に競争は終わり、真剣勝負のゲームが始まった。  僕たちはあの日、どれぐらいインベーダーをやっただろう。ずいぶんやった気がするけど、あの日にゲップが出るほどゲームをやったせいか、以来、僕たちはなんだか、インベーダー熱が少し冷めてしまった。あの日、真剣勝負で遊んだとはいえ、やっぱり「いつバレるか」という恐怖心が強くて、心から楽しめなかったことも影響したのかもしれない。? ■リアル・インベーダー  百円ライターを使って、ただでインベーダー・ゲームをするという悪質な不正行為をはたらいてから、確か半年ぐらい経った頃だったと思う。どういう経緯からか、父が「スペース・インベーダー」のゲーム機を持って家に帰って来た。不正をはたらいたあのゲームセンターと同じ機種で、テーブル・タイプだった。  インベーダーのブームも陰りが出始めた時期とはいえ、我が家にあの「スペース・インベーダー」がやって来たのだ。少しインベーダー熱が冷めていた時期とはいえ、僕はこの夢のような出来事に狂喜乱舞した。僕の家のものだから、お金を払う必要がない。天板を持ち上げれば、クレジットを上げるスイッチがある。だから好きなだけ、クレジットを上げられる。好きなだけゲームができるから、色んな技が試せた。僕のインベーダー熱は、これを機に再び燃え上がった。  でも、噂はまたたく間に広がり、僕の家には大勢の同級生が集まるようになった。中には僕がまだ学校から帰ってもいないのに、勝手に家に上がり込んで、ゲームに熱中している友だちもいた。顔は知っているけど、名前もクラスもわからない、といった同級生も何人かいた。しばらく、そんな状況が続いた。その陰で、僕は少し孤独をおぼえた。同級生たちは誰一人として、僕と遊びに来るのではなかった。インベーダー・ゲームをしに来るだけだった。いや、それが寂しいというわけではない。なんか馬鹿にされているような気がしたし、なんというか、同級生たちのそういう性質を、いや人間なら少なからず持っているであろう欲や冷徹さを、僕は生まれて初めて垣間みた思いがした。しかも、いつも満員御礼だったから、僕がプレイできる回数は激減してしまった。  「こいつらこそ、インベーダー(侵略者)じゃないか…」  僕は軽くふてくされた。  でも、あのゲーム機がもっと早く家に来ていれば、僕は母から一万円を盗んだり、ゲームセンターで不正行為、いや立派な犯罪行為をはたらかなくて済んだのかもしれない。  …でも、そう思える一方で、違う考えも浮かんだ。僕が母からお金を盗み、それも小学五年生にはとても大きな金額で、その動機がインベーダー・ゲームだったと知った父が、僕の再犯防止、非行防止のために、ゲーム機を持って帰って来てくれたのかもしれない。そうとも考えられた。  でも、もし仮にそうだとしても、父はそういうことをいちいち、僕に言うような人ではなかった。 ? ■玉を弾いて夕日に乾杯  僕がインベーダー・ゲームで不正を行ったゲームセンターの隣に、パチンコ屋があった。  パチンコといえば、僕は何度か父に連れられて行ったことがあったし、父から少し玉を分けてもらって、指で弾いて遊んだこともあった。もちろん、当時はまだ電動で玉が出るようなことはなく、一発ずつ自分の指で弾くものだった。  「その経験が、今こそ活かせるのではないか?」  その日、ふいに僕はそう思った。この状況を変えられるかもしれないぞ…!?  それはやはり、小学五年生あたりだったと思う。  その日は友だち数人と、「次はあそこに行こう」「その次はあそこがいい」などと、遊び場を転々と変えて遊んでいた。  夕方が近づいてきて、僕たちは空腹に気づいた。誰か一人が「モナカのアイスが食べたい」と言えば、別の一人が「俺はブタメンが食べたい。スープも全部飲みたい」などと言い、みんながそれぞれお菓子や食べ物を思い浮かべ、いますぐ食べなきゃ気が済まないほど、僕たちは飢えをおぼえた。  その時だった。僕に素晴らしいアイデアが閃いたのは。  「じゃあ、いまからあそこのパチンコ屋に行こう。行ったらみんな、できるだけバラバラになって玉を拾って集めてくれ。集めた玉は全部、俺に渡してくれ」  みんなはよく要領を得ないような顔をしていたけれど、素直に僕の指示に従うことになった。  僕らはパチンコ屋に着くと、別々のラインを歩き、パチンコ台の足元に落ちている玉を拾い、僕がそれを集積した。  やがて僕はパチンコ台に座り、一発ずつ打って玉を増やした。あの日の僕は、なかなかうまかった。パチンコ台でそこそこ玉が増やせたし、その間も友だちが、次々に玉を集めてきた。僕はプラスティックの箱にそれを集め、やがて、三十分もしないうちに、玉は小箱を満たすまでの量になった。  そこで僕は、友だちに次の指示を出した。  「みんな、外に出て待ってて。俺がお菓子に替えてくるから」  僕は、小箱一杯の玉を持ってカウンターに行った。当時のパチンコ屋では、出玉は物に替えるのが当たり前だった。古物商に景品を買い取らせて現金をもらう…という、いわゆる「三店方式」は、その頃にはなかった。パチンコはもっと気楽に楽しめるものだったし、もちろん当時の方が、ゲームとしてもはるかに面白かった。  だから当時のパチンコ屋には、カウンターに様々な商品(景品)が置いてあった。レコード盤だってあったし、現にいつだったか僕は、シャネルズの『ランナウェイ』をパチンコ屋で手に入れたこともあった。でも、その日は飢えた子供たちのために、食べ物に替えなければならない。それは、僕の話術をもって成し遂げなければならない。ところが、カウンターにいた店員は、「子供はパチンコ禁止。玉は品物と替えられないよ」と、冷たく僕を突き放した。もちろん、僕がその程度で引き下がるわけはない。  「だって、お父さんが先に帰っちゃったんだもん。お父さんと一緒に来て、さっきまで一緒にパチンコしてたけど、お父さんだけ『用事ができた』って言って帰っちゃった。僕は『もうちょっと遊びたい』って言ったらこの玉をくれて、『帰りにお菓子にでも替えなさい』って言って出ていった。ちょっとだけパチンコしたけど、もう夕方も近いから僕も帰る。お父さんに電話して聞いてみてもいいよ」  店員のおじさんは、困ったような顔をしながら言った。  「だけどさっき、他の小学生たちも玉を拾ってただろう? この玉、みんなで集めたんだろう?」  「違う。友だちたちは勝手について来て、お父さんが僕にしか玉をくれないから、みんな仕方なく玉を拾ってたみたい。それも飽きちゃったみたいで、みんな帰っちゃった」  店員のおじさんが半信半疑になってきたところで、僕はカウンターにある景品を、無言で買い物かごに詰めはじめた。実力行使に出た方が話は早いと思ったからだ。おじさんはどうするべきか迷っているようだったけど、結局、僕のするがままに任せるだけだった。僕は夢中で食べ物をかごに詰め続けた。お菓子、ジュース、ポテトチップス、チョコレート…。小箱一杯の玉でも、子供四人が食べるのには十分な量の食糧が得られた。  パチンコ屋を出ると、僕は友だちにお菓子やジュースを配った。  夕日に染まった僕を、友だちは英雄だと崇めた。そして、戦利品であるジュースを手に手に持つと、僕たちは夕日に向かって乾杯した。 ? ■読売新聞とサインボール  パチンコ屋の話を思い返すうち、あの当時でもう一つ、僕の悪賢さが際立った事例を思い出した。  小学校五年生の七月二十日のこと。  なぜ、その日付までを覚えているかというと、一学期の最後の日だったから。つまり、翌日から、待望の夏休みが始まろうという日だったからだ。  一学期の終業式を終えて学校から帰る途中、家の近くの路上で、自転車に乗ったおじさんに話しかけられた。  「僕、野球やってるでしょう? これ欲しくない?」  おじさんは、王貞治のサインボールをみせながら僕に言った。  「欲しかったらあげるよ。お家は近いの? お母さんに、『明日から読売新聞とって』って言っておいで」  僕は小学二年生からリトルリーグで野球をしていたから、頭は丸坊主だし、顔も日焼けしている。そうとくれば当時は、一見して野球小僧だと判断されるのが常識だった。だから当然、野球小僧の僕としても、王貞治のサインボールは喉から手が出るほど欲しかった。よく覚えていないけれど、王貞治がホームランの世界記録である七五六号を打ったのは、その年か、その前の年だった。だからなおさら、王貞治のサインボールは非常に魅力的だった。  僕は猛ダッシュで家に帰り、ランドセルを玄関先に放り出すと、「お母さん、明日から読売新聞とって!」と、叫ぶように言った。  うちは朝日新聞だった。当時は朝日新聞が、捏造記事や誤報ばかりの新聞だとは、あまり思われていなかった。だから母は訳もなく、別の新聞に乗り換えるつもりなどなく、そもそも父が主に読んでいるので、勝手に切り替えるわけにはいかなかった。  「あんた、そんなの新聞屋の勧誘なんだから、すぐ断ってきなよ」  母の反応は僕にとって意外だった。新聞なんて、どこも同じだと思っていたからだ。母のその言葉に、僕は当然しょんぼりと肩を落とした。しかし、それは数秒のことだった。肩を落とした僕の脳裏に、閃いたことがあった。その閃きに、内心「これだ!」と僕の心は沸き立った。  ふと気づけば、勧誘のおじさんは玄関まで来ていた。僕の後ろに突っ立っていることに、母もすぐに気がついた。  「うちはずっと朝日なんで、お断りします。ごめんなさいね」  それでも僕は、決して落胆しなかった。  それどころか、激しい熱意をもって、その日から猛特訓を開始した。もちろん、王貞治のサインを精密に描き真似るべく修行を開始したのだ。  普段は滅多に使わない勉強机に向かい、無我夢中で王貞治のサインを描き真似た。その甲斐あって、僕のサインは日に日に上達していった。夏休みの宿題なんかは、もちろんそっちのけだ。  やがて、どうみても本物と思えるほどに、うまくサインが描けるようになった。マジックペンも色んな種類がある中で、最も本物っぽくみえる物を見つけた。  次はさて、顧客の開拓となるわけだが、王貞治の世界記録更新から間もない時期でもあったし、夏休みでもあったから、すぐに数人の顧客が確保できた。もちろん、野球好きの同級生たちだ。  僕は確か、一個千円ぐらいで売ったと思う。本物の硬式球を買わなければならないけれど、仕入れ分を差し引いても、一個六百円から七百円ぐらいの利益は出せたと思う。小学生にとっておいしい商売だったし、誰にも疑われなかった。なぜ、いくつも王貞治のサインボールを持っているかというと、「お父さんの知り合いが王貞治の友だち」という設定で説明したからだ。  ちなみに僕はその後、調子に乗って長嶋茂雄のサインの習得も試みた。  でも、こっちは王貞治よりもはるかに複雑な構図だったので、僕はあっさりと諦めた。  それでも、その年の夏休みは、普段よりもリッチにすごすことができた。 ? ■しごかれて心眼ひらく  僕は、小学二年生から野球を始めた。所属するチームはリトルリーグだから、ボールは硬式球を使う。当たるとすごく痛いけれど、当時の野球はスポ根そのものだから、「腰を落とせ」「ボールは身体の正面で受けろ」「後ろにもらさず身体で止めろ」と、みっちり基礎を身体に叩き込まれた。なんでもすぐ「声を出せ!」と言われ、監督やコーチ、先輩の言うことは絶対で、小学二年生でも容赦なく鍛えられた。  僕がリトルリーグに入った当時、隣の家には同級生が住んでいて、彼はチームメイトでもあったし、もちろん友だちでもあった。  僕たちは、晩ご飯のあとでよく一緒に「自主トレ」をした。最初は、それぞれが自分の家の前でバットの素振りをするだけだった。それが、いつの間にかバットが地面に当たる音を聞いて、聞いた方が釣られるように外に出て、一緒に素振りをするようになった。リトルリーグ規格の金属バットは、コンクリートに当たると「カラン」と鳴る。僕と友だちとの間で、それがいつしか合図になっていた。二人で素振りをする自主トレは、やがて僕たちの日課になっていった。  しかし、お気楽だったのは、最初のうちだけだった。自主トレといっても、バットを振りながらプロ野球のことやチームのこと、学校での出来事など、たわいないお喋りをする気楽なものだった。それが次第に、気の抜けない過酷なものとなっていった。なぜなら、僕たちの“お目付け役”が現れたからだ。悪いことに、隣の友だちの親父さんは野球好きで、社会人野球の経験者でもあった。その親父さんが、僕たちの自主トレに次第に入り込み、やがて指導者、教育者へとなっていったのだ…。  親父さんは最初、晩酌に赤らんだ顔でタバコをくわえ、パジャマのズボンにランニング…といった、お気楽ないで立ちで登場した。僕たちの素振りをみては、ほろ酔いのまま「もうちょっと脇を締めたほうがいい」とか、「打つ時はアゴを引くように」とか、二、三のアドバイスをする程度で家に戻っていった。それがだんだん、僕たちの自主トレに身を乗り出すようになった。細かいことにも口を挟むようになってきて、それは加速度的にエスカレートしていった。やがて、僕が「カラン」と鳴らすと、友だちと一緒に親父さんが出てくるようになり、友だちの「カラン」で僕が外へ出ていくと、すでに親父さんもそこにいる、といった具合になった。  親父さんは、自主トレの内容にも手を入れてきた。素振りよりも効果的な打撃練習として、新聞紙をボールぐらいの大きさに丸め、それを親父さんが横からトスして、僕たちがそれを打つという練習も加えてきた。僕が五十球打つと、次は友だちが五十球、そしてまた次に僕が…と、順番に入れ替わりながら、一晩で合計三百球ずつぐらいは打った。それも、一球たりとも手を抜くことは許されなかった。手にはマメができ、それが破れ、皮がむけ、両手がボロボロになった。それでも、親父さんは容赦なかった。「泣き言を言うな」で片付けられ、打撃練習は連日繰り返された。僕たちは、手の痛みをこらえながら、フルスイングを繰り返した。やがて僕たちの手の平は、分厚く頑丈な皮に覆われるまでになっていった。  僕たちの自主トレは、親父さんの登場によってますます過酷になっていった。親父さんが出てくる前に、準備運動としてランニングまでさせられるようになった。親父さんが出てくる前なら、二人だけだった以前のように、お気楽モードに戻れる。そう思った僕たちは、お喋りしながらダラダラと走っていた。しかし、親父さんはすぐに目ざとくそれに気づき、ある夜突然、「おい! お喋りするな。もっと早く走れ!」と怒鳴ってきた。強制ではなく、あくまで自主的に始めたことなのに、もはや自主トレではなくなっていた。  さらに悪いことに、僕と友だちの家の向かいには、道を挟んで公園があった。だから僕たちのランニングは、公園の外周を走るように言われていた。この公園という舞台環境が、僕たちをさらに過酷な試練へと追い込むことになった。隣の親父さんは、ランニングと素振り、トス・バッティングでは飽き足らず、守備練習まですると言い出したのだ。夜なのに、どうやって守備練習をするというのだろうか…?  その公園には、広い砂地の運動スペースがあって、僕ら近所の小学生たちはよく、そこで手打ち野球などをして遊んでいた。でも、もちろんそれは昼間のことで、夜、薄暗い街灯の下ではボールが見えず、キャッチボールさえろくにできない。ましてや、守備練習などやりようがない。それでも、親父さんは容赦しなかった。なんと、ノックをすると言い始めたのだ。当然、僕と友だちは震え上がった。ボールがろくに見えないうえに、硬式ボールだから当たるとすごく痛い。しかも、僕たち少年にとって、大人の打つ打球はものすごく速く感じるし、グローブで受けても、大人の打球はすごく重くて手が痛い。そんな球が、見えない暗闇から僕たちを襲う。そんな修行って、「巨人の星」でもなかったんじゃないだろうか?  しかし、恐れていたノックは、本当に行われた。それも毎晩、繰り返された。  その頃には、親父さんはすっかり僕らの所属するチームに入り込み、正式なコーチという立場になっていた。だけど無論、夜の自主トレというか、苛烈なしごきは、僕と友だちの二人だけに課せられた。  連夜にわたる親父さんの容赦ないノックは、僕と友だちに無数の青アザを与え、しかしその一方で、高度な守備力をも与えてくれた。  夜の公園では、親父さんの打つ打球は見えないから、僕たちは音を頼りにするほかなかった。四十メートルほど先で、親父さんがノックする姿が薄ぼんやりと見える。それを見て大体の打球の方向は予測できる。あとは「ザッ! ザッ!」と砂を蹴って迫るボールの音を頼りに、身体の正面でボールを受ける。たまにはキャッチできるけど、大概は身体に当たったり、顔や頭に当たることも少なくなかった。それでも球は、身体の正面で受けなければならない。それが昭和の少年野球の鉄則だからだ。  「ザッ! ザッ! ザッ!……」あの音は、いまでも忘れられない。でも、球の当たる激痛は、僕たちの神経をいやでも研ぎ澄まさせ、打球への集中力を一つ上の次元へと高めた。僕たちは次第に、薄暗い公園であっても、大人の早い打球が取れるようになっていった。打球が見えなくても、身体が自然に打球の前に動くようになっていった。恐怖の暗闇ノックのお陰で、僕たちは高い守備力を身につけることができた。もちろん、素振りや新聞紙を使った打撃練習も、大いに僕たちの打撃力を高めた。昼間に行われるリトルリーグの練習では、他の同級生たちからみて、僕たち二人は抜けた存在となっていた。  とはいえ、それは補欠である僕たちの学年の中での話であって、まだまだチームの試合に出してもらえるようなレベルではなかった。 ? ■背番号十八の夕焼け  僕の中に、人生を大きく変えた一つの情景がある。  キチガイ少年が、いくらかまともになるきっかけになった場面だ。  僕らのチームでは、練習が終わると軽いミーティングが開かれる習慣があった。グラウンドの隣の駐車場に停めてあるチームのバスの脇に集合し、連絡事項などを監督から告げられるのが慣例だった。  あの日は、次の公式戦に向けてレギュラー・メンバーが発表される日だった。レギュラーに選ばれるのは十八人。リトルリーグというのは、生まれ月によっては、中学一年生の夏までプレイすることになっている。それは、リトルリーグがアメリカ発祥であり、アメリカの学校の始業時期が夏だからという理由らしかった。  ともかく、レギュラー・メンバーというのは、最上級生である中学一年生によって占められる。どこのチームでもそれが常識だった。ただ、その頃の僕らのチームには、二人だけ例外がいた。最上級生よりも一つ歳下の小学六年生から、ホームランバッターのカジヤマ君と、小柄ながら天才肌のオオシマ君の二人が、レギュラー入りしていたのだ。二人はあの日も、やはりレギュラーに選ばれた。  余談ながら「オオシマ君」というのは、野球好きなら知る人も少なくないであろう、大島公一さんだ。バルセロナ五輪で野球の日本チームが銅メダルに輝いたとき、僕はテレビを観ていてふいに、「ええッ!?」と驚いた。「大島公一ってあの大島公一じゃん! 大島君、やっぱすげえ!」興奮しながら、オオシマ君が、知らない間にプロになっていたことを、オリンピックのテレビ中継で初めて知ったのだった。  さらに余談になるが、僕はオオシマ君とプレイした東京を小学六年生で離れ、埼玉に引っ越し、さらにバルセロナ五輪が開催された頃には、すでに四国で暮らしていた。だから、オオシマ君のその後については、噂すら聞こえない場所で生活していたのだった。  余談から戻る。  レギュラーの発表は、背番号一番から順に、背番号と名前を監督から読み上げられる。呼ばれた選手は監督の前に進み出て、大きな布製の袋を受け取る。布袋には、公式戦のレギュラーだけが着ることのできる、憧れのユニフォームが納まっている。布袋の表面には、太いマジックで背番号が書かれている。カジヤマ君も、オオシマ君も、それぞれ慣れた感じでそれを受け取った。  「一個上のメンバーに入るなんて、あの二人はやっぱすげえな」  …なんてぼんやり感心していると、なんとなく、チームのみんなが僕の方を見ていることに気づいた。  「十八番、サカキバラ」  監督が、少しイラついた感じで僕の名前を呼んだ。ハッとして僕は監督の方をみた。監督がイラついたように感じられたのは、一度呼んでも僕が反応しなかったからだろう。僕の名前が呼ばれるなんて、万が一にもありえない。だから僕は、まるで気づかずにいたのだった。ようやく状況を理解した僕は、慌てて監督の前に進み出た。雲の上を歩くような感じで、ただ普通に歩くだけなのに、足がもつれそうになった。半信半疑のまま夢中で布袋を受け取り、深くお辞儀をした。お辞儀をしたまま、なぜか涙が溢れそうになっていた。  嬉しいという実感が持てたのは、家に帰って親の喜ぶ顔を見るに至ってからだった。とにかくその場では、レギュラーに選ばれたことが信じられなかった。何十人もいるチームの中で、僕の上には、二学年上の先輩と、一学年上の先輩がいる。小学生にとって、学年一つの違いはものすごく大きい。レギュラーの先輩たちなんて、僕らにとってはまさに雲の上の存在だ。滅多に口をきいてくれることもないし、練習のメニューもまるで違うし、別世界の人たちだ。さらに監督に至っては、僕らがまともに指導を受けたり、話し掛けられたりすることもほとんどなかった。監督にとって僕らの学年は、まだまだ眼中にない存在だと思っていた。  でも、監督はみていてくれたんだと思った。そしてこのことが、僕のその後の人生において、ものすごく大きく影響した。いまにして思えば、「努力は報われる」ということを、僕はこのとき初めて体験した。その頃の僕は、そもそも「努力は報われる」という概念すら持っていなかった。ただガムシャラにバットを振り、ボールを追い、声を出し、筋トレに励んだ。ただガムシャラなだけで、その成果や結果については、ほとんど考えたこともなかった。  社会に出て、仕事に就き、会社を経営してきた時間のなかで、僕は数え切れないほどの苦難に直面してきた。そんなとき、あの日の驚きと感動が自然に思い出された。  あの、チームのバスの脇から見た、西の空に沈みかけた夕陽…。そして、泣きそうなほど心が震えたあの瞬間を、僕はきっと、一生忘れることができないだろう。 ? ■背番号十八から十三へ  初めてのレギュラーから一年数ヶ月後、僕はチームのキャプテンになっていた。しかも四番打者で、エースで、公式戦ユニフォームの背番号はもちろん「一」だった。  隣の家の友だち、クマダという名のチームメイトは、副キャプテンになっていた。そしてクマダの親父さんは、あの鬼教官だった隣の親父さんは、チームの監督になっていた。  この頃にはもう、毎晩のあの地獄のしごきから解放され、自主トレは、僕とクマダにメニューも任されるようになっていた。  ところが、そんな僕たちの関係に、劇的な変化がもたらされることになった。僕の父が経営する会社が新工場を建てたことによって、僕たち家族も、浦和に引っ越すことになったのだ。  六年生の途中だけれど、もちろん、学校は転校ということになる。でも、チームの移籍云々は別の話だ…というのが、チームの大人たちの考えだったらしい。要するに、転校は構わないが、チームには残ってもらう、というのがチーム側の要望らしかった。  らしいとか、らしかった、というのは、その話はひょんなことから、三十歳を過ぎてから聞かされたからだ。僕の知らないところで、僕がチームに残留するか移籍するか、チーム関係者や僕の両親を含めた父兄の間で、綱引きのようなやり取りがあったようだった。  僕は、ずっとがんばってきた板橋リーグの「高島平ジャガーズ」が、もちろん大好きだった。僕を育ててくれた監督やコーチ、世話をしてくれた父兄の皆さんにも感謝していた。キャプテンとしての責任の大きさも、十分に理解していた。でも、浦和から、荒川を挟んで板橋まで小学生が通うとなると、現実的ではないと僕は思った。自転車で一時間以上もかけて通うとなると、いずれ僕は根負けするはずだと思った。だったらきっぱりと、はじめから浦和リーグに移籍する方がいい。その意思を親に伝えた。面倒なやり取りはあったようだけど、結局、両親は何とかチーム側に納得してもらい、僕は浦和の小学校へ転校すると同時に、浦和リーグへと転入することになった。  転入先の浦和リーグはマンモス・チームで、僕が転入した当時、選手は総勢三百人以上いるといわれた。初めてグラウンドへ行ったとき、三桁の背番号というものを生まれて初めてこの目でみた。ちょっとしたカルチャー・ショックだった。  そんな大所帯のチームで、僕は背番号「十三」をもらった。同学年のチームメイトはみんな、三桁の背番号を付けていた。背番号三桁のチームメイトはみな、驚くほど無口だった。新しいチームに来て、右も左もわからない僕が何かと質問しても、モゾモゾするばかりであまり答えない。こうも口数の少ない小学生がいるものかと、とても不思議だった。でも、やがて親切そうに話しかけてきた一人のチームメイトから、「お前、みんなに無視されてるんだよ」と教えられた。  なるほど──。  いわゆる妬みというやつだった。違うチームから転入してきて、いきなり自分たちの頭越しに二桁の背番号をもらうとなれば、古株たちはさぞや面白くないだろう。僕は大いに納得した。でも、シカトはほんの一ヶ月ぐらいで解除された。野球をやる少年は、基本的に明るく、陰湿なタイプが少ない。それに、僕自身が望んで二桁の背番号を求めたわけではなく、また、それを僕が鼻にかけるでもなく、意外と気さくなヤツだということが、すぐに周囲に知られた。さらには、小学六年生というエロばかりが頭を埋め尽くす歳頃にあって、僕はすでにエロの大家だった。これは大いに歓迎され、僕はエロ本をチームメイトに貸してやったり、豊富なエロ知識も惜しげなく授けてやった。こうしたことから、僕は瞬く間にチームの人気者になった。当然、チームの結束力も急速に強化された。  新しい仲間たちとは、野球とエロで通じて深い結びつきが築かれた。僕はチームの副キャプテンに選ばれた。打順はもちろん四番で、やはりエースだった。  リトルリーグ最後の年の、最後の公式戦で、僕たちは結構いいところまで勝ち進んだ。記憶が曖昧だけど、確か、あと三回勝てば日本一…というところまではいったはずだ。  最後の試合はすごく悔しい負け方だったけれど、僕たちは清々しい気持ちで最後のゲームセットを迎えた。僕たちは、本当にいいチームだった。最後の最後まで、いい仲間だった。僕たちらしい最後だった…と思っていたら、厳密には、それが最後の試合ではなかった。  その夏、公式戦のおまけのように小規模なリーグ戦が開催されるとのことで、僕たちのチームもそのリーグ戦に招待された。非公式戦ながら、僕たちの浦和リーグのほかにも、リトルリーグの名門である調布リーグをはじめ、名門や強豪とされるチームが何チームか招待された。主催者のチームはどこだったか忘れたけれど、そこの創立記念行事として開催されたのだったと思う。  その日の僕の活躍は、リトルリーガーの集大成として十分すぎるものがあった。二試合したうち、一試合目に僕は先発ピッチャーとして登板し、完全試合をやってのけた。リトルリーグは六回制だから、アウト三つの六イニングで、合計十八のアウトを取る必要がある。そのうち僕は、十六個までを三振に討ち取り、残り二つのアウトは、いずれも内野ゴロだった。勝利打点も僕によるものだった。さらに二試合目、僕はショートとして先発し、打席において四打数・四ホームランをかっ飛ばした。これが僕の野球人生において、いまのところはピークだったと言える(いまも草野球をしているので、あれがピークだったとはまだ言いたくない)。 ? ■硬式から軟式へ  リトルリーグを卒業すると、その上に「シニアリーグ」というのがある。これは中学三年生までのリーグだ。当然、僕も浦和シニアリーグにスライド入団した。  シニアリーグで一年ほどプレイして、僕が次期キャプテンと目されはじめた頃、僕はすでに、シニアでの野球について悩み抜いていた。野球自体には問題なかったけれど、先輩たちがあまりにも悪かった。当時は「ヤンキー」ではなく「ツッパリ」の時代で、先輩たちの中にも、その手の人が少なくなかった。もちろん、僕もすっかりツッパリの端くれになっていて、タバコを吸えば酒も飲み、ゲーセンに行けば他のツッパリにケンカを売るか、女の子をナンパするか、なんてことに明け暮れていた。  それでも、野球も十分にがんばったし、ギターの練習もかなりやった。やりたいことは一杯あるのに、シニアの先輩たちは、僕たちに万引きを強要した。練習が終わると、指定された店で、指定された物を盗むように命令される。いくら僕がツッパリでも、先輩の命令となればあまり強くは拒絶できない。ツッパリ云々以上に、スポ根の世界では上下関係が絶対だ。だから悔しくても逆らえない。逆らえぬまま万引きをさせられ、補導されたりした。無論、先輩に強要された、などとは口が裂けても言えなかった。  僕は野球が好きで入団したし、一緒にリトルリーグからスライド入団した仲間たちも、みんな気持ちは同じだった。僕たちは一体、何をしにグラウンドへ来ているのだろう? 僕はわからなくなっていた。このままでは、仲間が一人抜け、二人抜け…と、間もなく負の連鎖が始まるに違いない。  ──悩み果てた僕は、ついに決意した。  “次期キャプテン”が辞めれば、この悪しき習慣を絶つことができるはずだ─。  ほかにはもう、解決策が見つからなかった。先輩たちに直接抗議もしたし、監督やコーチにも相談した。監督やコーチに相談したことで、先輩たちからボコボコにされた。でも、従順に万引きしてきたところで、結局、先輩たちの機嫌が悪ければボコボコにされる。理由なんて関係ない。「上だから下を殴れる」。ただそれだけだった。同じ目に遭っている仲間たちは、日に日に顔色を悪くしていった。僕はもうみていられなかった。次期キャプテンである僕が犠牲になることで、チームを生き返らせることができるなら、よろこんで腹を斬ってやろうじゃないか!  そうと腹を決めた以上、僕は勇気をもって行動した。監督に辞意を告げると、当たり前のように殴られた。「どうせ辞められるわけがないんだから、早くグラウンドに戻れ!」怒鳴られつつ、激しく頬を叩かれた。でも、そんなものは僕には何の意味もなさない。ビンタもグーパンも、日頃から先輩たちにやられまくっている。そもそも小学二年生の頃から、硬式ボールを日常的に受けてきた身体だ。少々のことでは痛みを感じない。僕は断じて負けないぞと腹をくくり、監督と対峙した。監督が「鬼」の異名をとる強面で、おまけに元麻薬Gメンだろうが一歩も引かず、ただ仲間のために戦った。僕が辞めるのはチームを生き返らせるためであって、僕にできる最大の抗議なのだ。それを何度も監督に訴え続けた。  結局、僕は意地を通し切った。ただ、「仲間」を守るための戦いに勝ったことによって、皮肉にも、僕だけがその日からみんなの「仲間」ではなくなった。  それでも僕に後悔はなかった。小学二年生から積み上げたものが、崩れ落ちるような無念さはあった。でも、そんなものはまた積み上げればいい。僕の心は、自分でも意外なほど晴れ晴れとしていた。  僕はその後、中学校の野球部へと転入し、ショートのレギュラーとしてそこそこの活躍をした。初の公式戦である新人戦では、優勝も経験した。卒業前には、特待生として野球部へ来ないかと、二、三の高校から誘いがあった。でも、それらのすべてを断った。小学二年生から中学二年生まで使ってきた硬式から、中学校野球部の軟式へとボールがかわったことで、僕の肘は完全に壊れていたからだ。 硬式球と軟式球とでは、硬さや重さはもちろんのこと、投げたり打ったり捕ったりするときの感覚もだいぶ違う。その違いに僕は順応し切れなかったようで、その負担は僕の右肘に集中してのしかかった。速い球は投げられたけど、実はその都度、肘に激痛が走っていた。それのことを僕は、親以外には言わなかった。チームメイトにすら隠したまま、鍼治療やら整形外科やら、色んな治療を試みた。しかし、僕の肘は治らなかった。両親は僕が将来、甲子園に行くものと期待し、信じてもいてくれた。一所懸命、僕の壊れた肘を治す手段を探してくれた。でも、ダメだった。高校で野球をやったところで、こんな肘の僕は、きっと使いものにならないはずだ。  苦労と心配ばかりかけてきた両親だけど、特に僕の野球に関しては、常に応援も協力もしてくれた。お陰で僕は、大切な仲間や貴重な経験を得ることができた。キチガイ坊やがようやく、人に認められる場所を得ることができたのだ。それによって、両親も少しは安堵してくれたと思う。ただ、甲子園で息子の晴れ舞台をみせてあげられなかったことは、いまでも両親に申し訳なく思っている。 ? ■和風スパイダーマンと山田邦子  僕はマーベル・コミックが好きで、中でも『スパイダーマン』は大好きだ。  小学校高学年の頃だったと思う。本屋で、マーベル・コミックの『スパイダーマン』を和訳したコミックを発見した。立ち読みで数ページもめくって読むと、あのマーベル・コミック独特なタッチと、斬新なストーリーに圧倒され、迷わず僕はそのコミックを買った。家に帰ると、すぐさま夢中になって読んだ。  のちに『スパイダーマン』が映画化されたとき、ピーター・パーカーがスパイダーマンになるプロセスが、原作とは少し違っていたのに違和感を覚えた。映画では、ピーター・パーカーが特殊な種類の蜘蛛に噛まれる、という設定だったけれど、僕の読んだ原作のコミックでは、強い放射線を浴びた蜘蛛に噛まれる、という設定になっていた。  そんなディテールをいまでも覚えているほど、僕はそのコミックを夢中で読んだ。あっという間に読み終えると、自分が壁を伝い登れる人間なのだという、強い確信が僕の全身にみなぎっていた。  部屋の壁に手をあて、壁を這い登ろうとした。驚いたことに、僕の手は壁に吸い付かなかった。  「まさか…そんな!」  本気でそう憤るほど、その時の僕は、自分がスパイダーマンになったものと信じ込んでいた。それほどまでに、コミックに没入していたのだった。いまでも不思議に思うけれど、本当にあのときの僕は、自分がスパイダーマンじゃないなんて、断じて受け入れられなかった。僕の勝手な思い込みかも?なんてことさえ、微塵も思わなかった…。  さて、そんな矢先、テレビで「スパイダーマン」が放送されることになった。  (なんてタイムリーなことだろう!)  僕は大いに喜び、興奮してその初回放送を観た。  ところが、日本版かつ実写版の「スパイダーマン」は、原作とだいぶ違うものだった。  スパイダーマンの本体はピーター・パーカーではなく、確か「タクヤ」とかいう日本人の青年だった。しかも、タクヤがスパイダーマンになる経緯が実に珍妙で、ここはちょっとおぼろげな記憶だけれど、確か「スパイダー星人」なる宇宙人に、謎のエキスを注入されたとか、なんかそういうわけのわからない内容だったと思う。しかも、毎回登場する様々な悪役キャラは、最後はお決まりで巨大化する。大体、ウルトラマンぐらいのサイズになる。当時のヒーローもの、戦隊ものといえば、この展開がいわばお決まりだった。…にしても、まさか「スパイダーマン」にまで持ち込むとなると、かなり無理があった。  しかも、これに対するスパイダーマンの反応がふるっている。  巨大化した敵をみるや、タクヤは手首にはめた無線機のような機器に向かって、「マーベラーーーー!」と絶叫するのだ。無線機であるなら、なにも大声を出さなくてもよさそうなのに…。  さらに、その先もお決まりの展開がある。  無線機で呼ばれた巨大戦艦が、どこからか空を飛んで現れる。これが「マーベラー」なのだが、主人公のスパイダーマン@タクヤがこれに乗り込むと、さらに「レオパルドン」という巨大ロボに変身させる。で、戦って勝つ。以上。  こんなテレビ番組だったのだが、それでも僕は、毎週これを観た。むしろその、パターン化された展開に慣れてしまうと、かえって楽しみになっていった。  そんな日々のある夕暮れ、姉が慌てたように「ちょっと電話代わって」と、固定電話の受話器を僕に向かって突き出した。  姉のそばに行き、受話器を耳に当てると、  「♪ イェイェイェエー、ワオッ!     イェイェイェエー、ワァーオ!     ビールのー、谷間の暗やーみにー     スパイダーマン! チャラ!」  なんと、日本版「スパイダーマン」の主題歌が流れてくるではないか。  僕は呆然として受話器を耳から離すと、姉と顔を見合わせた。  「なんだろうね? これ…」  「リカちゃん電話とかそういうのかな…」  なんとも不得要領な感じで姉といぶかしんでいると、  「キャハハハハッ!」  耳から離した受話器から、人の笑い声が聞こえてきた。  さらに何やら受話器越しに話しているようなので、「もしもし…」と、僕は恐る恐る受話器に向かって返答した。  「ようご? 俺だよ俺、ヤマダだよ」  「なぁーんだ」  僕は胸を撫で下ろし、姉に「友だちだった」と伝えた。姉も「なぁーんだ」と安堵した。  要するに、同級生の友だちのイタズラだった。ヤマダ君もどうやら、スパイダーマンが好きだったので、僕を驚かせようとしたようだった。ちなみにヤマダ君も、僕に劣らず奇行の多い少年だった。  その一年後、僕は浦和の小学校へと転校した。父の仕事の都合によるものだった。  転校するまで僕がいたのは、東京の高島平という、団地がやたら多いことで有名な町だった。  僕の家は一軒家だったけれど、ヤマダ君は団地に住んでいた。ヤマダ君は色々と問題のある少年だったけれど、僕は何度も、団地に住む彼の家で遊んだ。ヤマダ君にも姉がいて、いつもセーラー服を着ていた。やたらお喋りなお姉さんで、僕とヤマダ君が遊んでいる間、いつもお母さんとお姉さんの話す、やたら大きな声が聞こえていた。  転校して何年かして、何かのきっかけで、ヤマダ君のお姉さんが、のちの山田邦子だと知った。  僕はビックリした。確かに、言われてみれば同じ顔だった。でも、言われるまで気づかないほど、年月が経っていた。  そういえば、「会いたい」の沢田知可子の弟とも、僕は何度か遊んだことがある。  まあ、どちらも大して自慢にはならないけど…。 ? ■燃える電信柱  東京の板橋から埼玉の浦和に引っ越して、最初の夏だったから僕は小学六年生だった。  その日は土曜日で、僕は翌日の野球に備え、スパイクを磨いたり、グローブに油を塗ったりしていた。もう夜で、晩ご飯も食べ終わっていた。  「火事だーーー!」  突然、家の前の道路から男の人が叫ぶのが聞こえた。数秒して、また別の声で「火事だ!」と聞こえた。僕の部屋は二階で、ベランダに面しているので、すぐにベランダに出てみた。  家の前には三メートルぐらいの幅の細い道路が通っていて、その向こう側は工場の広い敷地になっている。敷地内には工場もあるけど、僕の家の真正面は、その工場で働く人たちの寮だと聞いていた。その寮の屋根から、オレンジ色の炎がチラチラと燃え立つようすが見えた。  (思ったほど火事っぽくないな…)  僕はなんでああまで叫ぶ人がいたのか、ちょっとわからなかった。でも、そのままボケーッと炎をみていると、少し炎が大きくなったと思った瞬間から、一気に炎が拡大した。ビックリするぐらいのスピードで炎は燃え広がった。道を挟んで見ていた僕が、炎の熱を顔に感じるまでになってきた。  「ようご、早く逃げるよ!」  家の前の道から、姉が叫んでいた。「え?」と僕は思ったけれど、確かに、これだけ急速に燃え広がれば、僕の家も安全とは言えなそうだった。  僕は階段を降りて玄関で靴を履き、家の前の道路を右に進んだ。間もなく、足早に避難する家族たちに追いついた。交差点を一つ超えれば、そこはもう安全そうだった。僕たちはそこで避難することにした。  「あ! アキがいない!」  退避先でホッとした矢先に、家族の誰かが言った。アキとは我が家の愛犬で、アキについて触れると長くなるけれど、僕たち家族だけではなく、近所や通行人からも愛された、優しくて賢い犬だった。  「俺が行ってくる」  そう言い残して、僕は家に駆け足で戻った。真向かいの火事はさらに盛んに燃え上がっていて、家の周辺は熱風にさらされていた。熱気もすごかったけれど、「バキ! バキ!」という、木材が激しくはぜる音も、他の物音など聞こえないぐらいにすごかった。  僕はアキを探した。庭にもいないし、玄関にもいない。急いで家の中を探しまわると、アキは風呂場で震えていた。「アキ、行くぞ」僕がそう言っても、アキは震えたまま、まるで腰が抜けたかのようになっていて、立つこともできなかった。仕方がないので、僕はアキを抱きかかえた。アキは僕の腕の中で震え続けていた。僕は燃え盛る炎を避けながら、家族のいる場所へと走った。  家族はみんな、アキの無事を知って安堵した。いつの間にか、会社にいるはずの父も来ていた。家族五人の全員が、引っ越したばかりの我が家をただ、遠巻きに見守るしかなかった。いままさに襲いかからんとする炎の勢いをただ、呆然と見ている以外に何もできなかった。消防車はすでに到着していて、消火活動も始まっていた。水をかけたぐらいじゃ、火事なんて消せないんだな…。僕には燃え盛る炎に対して、消火活動が無力に思えたし、なんだか虚しく不毛な努力のようにみえた。  やがて、我が家の前に立つ電信柱に、火が燃え移った。あの頃、木製の電信柱はまだ珍しくなかった。木製の電柱は、焼きを入れてあるのか、表面がさらりとして、少し焦げたような色をしていた。火が燃え移るなり、電柱は勢いよく燃えだした。  「もう、ダメだな…」  僕の後ろで、父がポツリとつぶやいた。  買ったばかりのマイホームが、いままさに燃えようとしているのに、父は騒ぐこともなく、静かに現実を受け容れたようだった。僕は内心、「オヤジ、すげー」と思った。僕だったら、せっかく買ったばかりの家が燃えそうになったら、バケツでも担いで走りまわり、大騒ぎしてしまうんじゃないだろうか。  ──それでも、火はやがて鎮まった。  家の真ん前の電柱が燃えたのに、奇跡的に、僕らの家は燃えなかった。  燃えなかったとはいえ、僕らがようやく戻った家は、悲惨な状態だった。家中が水浸しになり、道に面した部屋の窓ガラスは、全て粉々に割れていた。ガラスの破片が、家の中にも外にも散乱していた。まだ幸いにも夏だったから、窓ガラスがなくても、その夜は家の中で眠ることができた。  ただ、泣きっ面に蜂…というのとはちょっと違うけれど、やっと鎮火して僕たちが家に戻った時、玄関でなぜか、僕は蜂に刺された。その蜂は火事で興奮していたのか、ただ歩いて玄関に入っただけの僕を、いきなり刺してきた。あの蜂の奇行は余計だった。というか、ムカついた。  翌日の日曜日、僕はいつも通りグラウンドに行き、いつも通り野球をして帰った。でも、帰り着いた家のようすは、やはり悲惨な状態のままだった。  池の鯉は全滅していた。電線のビニールだかプラスチックだかがドロドロと熱で溶けて、庭の池の中にボトボトと落ちたようだ。そこから有毒ガスが出たのか、あるいは池の水温が急上昇したのか、いずれにしても、池の鯉のすべてが、白い腹を見せて池に浮かんでいた。火事は本当に怖いと思った。 ? ■浦和のトビウオ  中学一年生の夏休みに、友だち数人と市民プールに行った。当時は「浦和市民プール」といっていた。  楕円形の「流れるプール」がメインになっていて、プールの側壁には等間隔に、水流を起こすスポットが点在していた。  原理はよくわからないけれど、そのスポットの前を通ると、グワーンと激しい水流に押し流される。それが面白くて、なんというか、自分が洗濯機に入ったような気分になるので、スポットの前を楽しみにしながら、ときに泳ぎ、ときに潜り、友だちとはしゃぎながら流れるプールを何周もした。  プールを何周もするうち、僕たちは、何か違うことがしたくなった。  「トビウオやらねえ?」  友だちの誰かが提案すると、誰もが「やろう、やろう」ということになった。  この「トビウオ」というのは、僕たちが勝手にそう呼んでいた遊びにすぎない。これは、プールで立っている位置から前方にジャンプし、着水してまた足がプールの底につくと、すかさずまた前方に跳ねる。それを繰り返す。だけでなく、せっかくなので両手をトビウオの羽根のような角度で伸ばし、まるでトビウオが連続して跳ねているように、ジャンプを繰り返す。僕たちはそれをやることにした。  夏休みの市民プールには、もちろん大勢の客がいる。僕らは誤って人に乗り上げたりしないよう、前方を確認しながら飛び跳ね続けた。その間、僕は目が痛かった。トビウオを始めたあたりから、僕は目の痛みを感じていた。プールの消毒用のカルキか何かのせいだろうと思う。  やがて僕は、顔が浮いている間だけは目を開け、着水と同時に目をつぶり、またすぐ跳躍すると再び、目を開けて前方を確認しながら飛ぶようにした。それでもなお、目は痛かった。  目の痛みをこらえて飛び続けるうち、しばらくは前方の人もまばらで、目をつぶったまま飛んでも大丈夫そうなエリアが開けた。これ幸いと思い、いっそ目を閉じたまま飛び続けることにした。  目を閉じながらも、僕はガンガン飛んだ。目をつぶっていれば目の痛みはないから、こっちの方が勢いよく飛べた。ガンガン飛ぶうちに突如「ガン!」と、頭部に激しい衝撃が走った。真っ暗な視界に青白い星が無数に飛び散り、額には激痛が走り、脳みそがどこかへ吹っ飛ぶような激震が頭部を襲った。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。  ……映画なんかであるように、シーンとした静寂から、次第に周囲の音が鮮明に聞こえてきた。どうやら僕の周りで、大勢の人が騒いでいるようだった。  流れるプールが楕円形だということは、先に説明した通りだ。いや、もっと厳密に言えば、陸上競技のトラックのような形をしていた。僕は直線の開けたエリアをガンガンとトビウオしながら進み、しかし目をつぶったままだから、自分がどこまで進んでいるのかを認識できていなかった。僕はいつの間にか、カーブに差し掛かっていた。でも僕はそれを知らない。知らないから、直線だと思って飛び続けた。当然、カーブに当たれば、トビウオは陸に乗り上げることになる。もちろん僕もそうなった。しかも、頭からプールサイドへダイブした。目を開けたら、世界は赤かった…。  プールの監視員が僕に駆け寄り、すぐに担架に乗せようとした。僕は「大丈夫ですよ」と言ったけれど、「ダメダメ、すぐ横になって」と、有無を言わさず僕を担架に乗せた。ひとまず、係員の待機するテントへと運ばれた。到着するなり「ほら!」と、ややイラついたように、さっきの監視員が僕に鏡を向けた。額の右側が大きく割れ、そこからドクドクとおびただしい量の血が流れ、顔の右半分が真っ赤に血塗られていた。世界が赤く見えたのは、そのためだった。  「救急車が来るから、あっちへまた移動するよ」  応急手当を済ませた監視員はそう言うと、再び僕を担架に乗せ、別の監視員と二人で、僕の横たわる担架を持ち上げた。  「あれ!? 担架に乗せられちゃった(爆笑)」  実に愉快そうにそばで笑ったのは、親友のノブさんだった。さっきまで僕と一緒にトビウオをしていたけれど、いつの間にか、僕の怪我を面白がりに来ていた。  ノブさんはブラック・ジョークが好きというか、人が死なない限りは、人の不幸や不都合を笑いの種にするのが大好きだった。ものすごく酷いことを言うのだけれど、周りの人はつい、そのブラック・ユーモアに笑わされてしまう。そんな少年だった。  例えばあの頃、「ケニー君」とかいう白人の少年がアメリカかどこかにいて、下半身がないけど元気に暮らしてます…みたいな感じで、ひととき話題になった。「スケボーに乗った天使」とか言われていた。  ノブさんと近所のスーパー「ニチイ」に行って、本屋のコーナーを歩いていたとき、「ちょっとこれ見てみ!」と、ノブさんが平積みされたある本を指さした。そこには、「ケニー君」の写真集があった。  「なんだこいつ、ヤジロベーみてぇだな」  ノブさんはゲラゲラ笑った。本当は笑っちゃいけないけど、僕もつい吹き出してしまった。ノブさんとは、そういう人だった。  担架で運ばれながら、ノブさんが僕の姿を楽しそうに風刺しながら笑う声が聞こえた。「くそー」と思ったけれど、仕方がない。痛みはあまりなかったけれど、血まみれのビジュアルがあまりに衝撃的だから、誰がみたって救急車を呼びたくなるだろう。僕は担架を降りたかったし、自力で家に帰れる自信もあったけれど、仕方なく諦め、そのまま救急車で病院に運ばれた。  病院で治療を終えると、母が車で迎えに来てくれていた。  「お前の友だちが教えてくれたから…」  それでたまたま、僕がこの病院に運ばれたことを知ったという。しかし、母自身がその友だちから知らされたのではなく、弟がたまたま家の前にいたところ、自転車に乗った数人の少年が通りかかり、「お前の兄ちゃん、救急車で運ばれてたよ」と言いながら、僕の家の前を通り過ぎたという。  あとで弟に聞いたら、その自転車集団は、「すげぇ楽しそうに笑いながら帰って行った」とのことだ。やっぱりノブさんたちだった。母は「親切な友だちのお陰」と言っていたけれど、親切どころか、僕が病院に運ばれた後も、ノブさんたちはしばらくプールで遊び続け、存分に満足してから家に帰ったらしい。僕の怪我など、「笑えた」以外に関心がなかったようだ。良くも悪くも、ノブさんはそういう人だった。  ちなみに、あの日に僕が治療を受けた病院には、その数年後に、僕の弟が入院することになった。スズメバチに複数箇所を刺されたための治療入院だった。火事のあとの僕といい、バスタオルを巻いた母といい、僕の家族はやたらと蜂に刺される運命にあるようだ。まさか、あの「ミロの空き瓶」でハチミツ漬けになった蜂たちが、僕たち家族を呪っているのではないとは思うが…。? ■怪奇現象の夜  浦和の家では、たびたび怪奇現象が起きた。  例えば、家族はみんな一階にいるのに、二階で明らかに人の足音が聞こえたりした。このケースは家族全員が何度も体験しているので、慣れてしまったのか、特に誰も怖がったりはしなかった。ただ、僕個人に関していえば、金縛りだけは、何度あっても怖かった。  最初に体験したのは中学二年の秋で、その夜は普通に眠っていたのに、夜中に突然、なぜか目が覚めた。目は覚めても、目蓋は開かない。身体も動かない。僕は自室のベッドに寝ているはずなのに、どうやら違う場所にいるように感じられた。そこはいわば、異空間のようだった。  大きな鋼鉄同士がぶつかり合うような、「ゴーン、ゴーン」という重たい音が遠くから響いてくる。目は見えないのに、脳にはビジョンが投影される。それは、僕のいる異空間のようすだった。僕は地面に仰向けで寝ていて、その視点からのビジョンが脳裏に浮かび上がる。天と地は、赤と黒の絵の具をドロドロに溶かしたような、マーブル模様をしていた。天は赤と黒のマーブル柄の雲のようなものが覆っていて、天というより、巨大な天井のような感じだった。僕が直に寝ている地面も同じ赤黒マーブルで、やはり平らに広がっていた。  天と地の間は、実感として五十メートルぐらいの高さしかないけれど、横には無限に広がっている感じだった。その空間のどこか遠くから、「ゴーン、ゴーン」という音が絶えず響いていた。その音に交差して、「シャンシャンシャンシャン」と、アブラゼミの鳴き声に似た音も響いてきた。  「これが金縛りというやつか…」  脳裏に投影される天と地のビジョン以外、視覚的には何も認識できない。ただひたすら、例えようのない恐怖が僕を襲った。それは、「霊から攻撃を受けている」とかいう具体的な恐怖ではなくて、ただ、「恐怖」というエネルギーが僕の全身を包み、強烈に締め上げてくるような感じだった。金縛りを解こうとして身体に力を入れると、金縛りは怒ったかのように、さらに強く、僕の身体を締め上げた。抵抗しなければおさまるのかと思えば、変わらず得も言えぬ恐怖に縛られ続けるだけだった。再び僕は抵抗を試み、すると金縛りは怒ったような反応を示す。そんなことを繰り返すうち、ふいに金縛りが解けた……。  解放されて安堵すると同時に、激しい喉の渇きに気づいた。ベッドから起き上がり、階段を降り、一階の冷蔵庫の扉を開ける。何を飲もうか…。冷蔵庫の前でボーッとしていると、突然、ギューンと全身が何か強い力に引っ張られる感覚があって、気づけば僕は、元のベッドにいる状態に戻っていた。すぐに「ゴーン、ゴーン」と「シャンシャンシャンシャン」が聞こえてきて、やはり、あの赤黒マーブルの天地の間に僕はいた。ディオと初めて対面したときの、ポルナレフの心境だった。階下に降りていったはずなのに、一体、どうなっているんだ…!?  その後も僕は、何度か解放され、安堵して一階に降りると、またベッドに引き戻された。それを繰り返し、ようやく本当に金縛りから解放された頃には、窓の外は薄明るくなっていた。喉はカラカラだった。  翌日は、寝不足のまま学校に行った。帰りに親友のノブさんに、前夜の体験を話してみた。  するとノブさんは、「俺もなったことあるよ」とかテキトーな返事をしたあと、「もっと怖い話がある」と言って、何やらすごく怖い話を僕に聞かせた。内容は覚えていない。ただ、「この話を聞いた人には、数日中に霊が会いにくる」みたいな類いの、たちの悪い話だった。ノブさんは僕を安心させるどころか、さも愉快そうな顔で追い打ちをかけたのだった。  ただ、それでも一応、対処法らしきは教えてくれた。それは、もし霊が出てきたら、 「待つ」、「叶う」、「そう」  …と繰り返し唱えれば、無事に霊をやり過ごせるとのことだった。  真っ赤な嘘──。  それに気づくまでの数日間、僕は恐怖に震えてすごした。もちろん、幽霊なんて一向に出てこなかった。どうりでノブさんが、あんなに愉快そうな顔をしていたわけだ。  ただ、その後も金縛りはたびたび体験した。それは二十歳代半ばまで続き、その後は途絶えたものの、四十代後半になってから、ふいに再び僕を襲った。それは、古い日本家屋に引っ越して間もない頃のことで、そのときはハッキリと、僕は幽霊をみた。生まれて初めて、幽霊というものを明確にみた。それは和服を着た高齢女性で、近所の人に聞く限り、僕の引っ越した家に数年前まで住んでいた人と、かなり特徴が似ているとのことだった。 ? ■目覚めて亡骸、冬の朝  中学二年生の冬、僕にはいまでもどう自分の中で消化すればいいのかわからないという、何とも後味の悪い出来事が起こった。  ことの始めは、野球部の練習の帰りだった。  グラウンドから校舎へ帰る途中、道端にダンボール箱が置いてあって、中からニャアニャアと仔猫の鳴く声が聞こえた。箱の中には仔猫が一匹いて、一見して栄養不足のようだった。身体はガリガリに痩せ細り、両目は開いているのに、グレーの目ヤニの膜で塞がれていた。鼻もグズグズと鳴っていて、呼吸さえ満足にできないようで、とても苦しそうだった。  それを見た僕は、路傍に立ったまま、どうするべきか悩んだ。  僕の家では、昔から猫を飼ってきた。一匹だけの時期もあれば、複数のときもあった。この仔猫を連れて帰っても、家族は特に問題とはしないだろう。ただ、中学生の僕の目からみても、その仔猫の将来は楽観できなそうだった。果たして、生きて成長できるのだろうか? そこが大いに不安だった。連れて帰るのはいいけれど、すぐに死んでしまうのではないか?  それでも、必死に鳴き続ける仔猫をみると、どうしても見過ごすことができなかった。見て見ぬふりをして悔やむぐらいなら、仮に仔猫が早死にするにしても、連れて帰ろうと僕は決意した。  ダンボール箱を持って校舎に戻り、部室で着替えを済ますと、家に向かって歩き出した。すると、中学校から二つ目の交差点で、小学生の女の子たちに呼び止められた。仔猫の声が聞こえたらしく、「ねえ、その箱の中見せて」と言ってきた。僕はダンボール箱を道端に置いて、二人の女の子たちに仔猫を見せてあげた。かわいい、かわいいとキャーキャー言いながら、二人の女の子は仔猫を撫でた。  しばらくそうしていると、「ねえ、これうちで飼ってもいい?」と、片方の女の子が言い出した。  「いきなり今日からではダメだよ。お父さんとお母さんに聞いてみて? 僕はそこの中学校の野球部にいるから、もし飼っていいと言われたら、野球部の部室においで」  それでもその子は聞きわけてくれなかった。彼女が言うには、自分の家は猫を飼っているので、親はまず了解するだろうとのことだった。さらには、もう片方の女の子も、やはり家で猫を飼っているそうで、もし、自分の家で断れても、もう片方の女の子が飼えるから大丈夫だと、そう言って引き下がらなかった。  しばらくはそんなやり取りをして、結局、納得はできなかったけど僕は根負けした。しぶしぶ彼女たちに仔猫を委ねたものの、その日は家に帰ったあとも、イヤな予感が消えなかった。  翌日もまた、野球部の練習は行われ、練習が終わると僕らは部室に戻った。  部室の扉の前に、ダンボール箱が置いてあった。  「やれやれだぜ…」  空条承太郎風に溜息をつきつつ箱を開けてみると、やはりあの仔猫がいた。昨日よりも弱っているようにみえた。  そうとなれば、僕は再び腹をくくるしかなかった。仔猫を家に連れて帰ると、家族に事情を説明し、その日は僕の部屋に寝かせることにした。僕の寝相の悪さは折り紙付きだから、猫が絶対にベッドに入らない工夫が不可欠だ。  真冬だったし、特にあの冬は寒かった。僕のベッドは、部屋の一番奥にある。四本の足がついたベッドで、床から三十センチほどの高さに床板があって、布団はその上に敷くという高さだった。仔猫の大きさからして、ジャンプしてもベッドには届かないだろう。だけど、万が一ということもある。僕は丸い籐のかごを用意し、部屋の中でもベッドから一番離れた場所に置いた。その中に仔猫を入れ、バスタオルで何重にも仔猫を包んだ。仔猫が籐のかごから抜け出しにくくするためでもあったし、もちろん、保温の意味もあった。仔猫はすぐに、寝息を立てた。やはりグズグズといって、呼吸は苦しそうだった。  翌朝、僕は普段よりも早く目を覚ました。仔猫が気になっていたからだ。めちゃくちゃ寒い朝だったけれど、とにかくベッドを抜け出し、籐のかごをみた。  ──いない……。  まさかとは思ったけれど、ベッドの方に振り返り、布団をはいでみると、そこには仔猫の亡骸があった。ちょうど僕の背中に押し潰されたような状態だった。寒さからか、寂しさからか、あるいはその両方からなのか、僕の体温を求め、身の丈の二倍以上もある高さまで、必死になって登ったのだろう…。  思いつきで奇行ばかりに走る僕だけど、この件に関しては、何とも言えない苦い思いが消えずにいる。  いまもって、自分の中で消化できない出来事だ。  仔猫を包んでいたバスタオルに、冷たくなった仔猫を再びくるみ、スコップを持って家を出た。  近所の空き地に穴を掘り、仔猫の亡骸を埋めようとしていると、どこからかおばさんが近づいて来て、「ここに勝手に穴を掘ってはダメ」だと怒られた。空き地だと思っていたのは、そのおばさんの家の庭だった。僕は、仔猫の命を奪ったばかりか、近所のおばさんまで怒らせてしまった。こういう救いのない結末というのは、人生においてたまに起こるものだ。 ? ■下着泥棒とかっちゃんマン  中学校の友だちで、カチヤマという奇行少年がいた。周りからは「かっちゃん」と呼ばれ、僕とは主に、野球部でのチームメイトであり、また、ツッパリ系の活動での仲間という関係だった。野球部では、カチヤマが三塁手で、僕が遊撃手で、僕ら二人が鉄壁の三遊間を固めていた。  カチヤマは野球以外に取り柄がなく、しかも立派な奇行少年で、学校の成績は僕よりも悪かった。テストではいつも学年で最下位を争っていたし、勉強ができない以前に、中学二年生にして、文字もろくに書けなかった。  僕らの中学校の男子のカバンは、「帆布製肩掛けカバン」というやつで、アニメの「ど根性ガエル」なんかで使われているあれだ。僕らの中学生時代は松田聖子や中森明菜、堀ちえみや河合奈保子なんかが人気で、男子はよく、肩掛けカバンに「聖子命」とかマジックで書いたりしていた。肩掛けの部分に、正面からその文字が見えるように、ご贔屓のアイドル名などを書いたものだった。  カチヤマは堀ちえみのファンだったので、ど根性カバンにその意思表示をしようと試みた。ところが、カチヤマは自ら馬鹿っぷりを露呈することになった。「ちえみ」を無理してローマ字なんかで書いてみたところ、「CHIEME」と書き損じた。僕らは「これ、ちえみじゃなくて“ちえめ”じゃん」と言って笑った。しかも、これまた無理をして漢字で「命」と書こうとしたところ、「命」に似た別の何かになった。「叩」とか「印」とか「合」とか、「命」に似た漢字を混ぜ合わせたような奇妙な記号で、それは漢字ですらなかった。それをみた僕らはむしろ、笑うよりもカチヤマを気の毒に思った。  カチヤマはその後、「かっちゃんマン」になる。  その前段として、僕はある日の路上にて、ある物を拾う。  その日、道を歩いていた僕は、何か妙に気になるオーラを放つ紙袋を発見した。  なぜ、道端に捨てられていたあの紙袋が気になったのか、いま思い返してもよくわからない。でも、理屈抜きで妙に気になった。  僕はおもむろに近づき、紙袋の中を覗いてみた…。次の瞬間、僕の心臓は破裂しそうになった。女性用の下着が、それも新品ではなくすでに使用されたであろう下着が、大量に詰め込まれていたのだ…!!  思春期の少年は、エロへの関心で頭が一杯だ。いや、少なくとも昭和後期の僕たちの時代は、それが当たり前だった。そんな僕にとって、おそらく下着泥棒の戦利品であろう大量の女性用下着は、心臓をバクバクさせて余りある代物だった。僕はむんずとその紙袋をつかむと、激しい動悸をこらえつつ、一目散に家へと走った。  …ところが、家に帰るとすぐ、あの興奮はから騒ぎであったと気づかされた。自分の部屋に帰り、まじまじと女性下着を見てみたけれど、何がどうってことはない。ただ、女のつけるパンティやブラジャーがあるだけだ。女体そのものは欠片もない。女性の香りがするわけでもない。実際にこんな物があったところで、僕にとっては何がはかどるわけでもない。僕の興奮は、急速にしぼんでいった……。  興奮どころか、むしろ虚しい気持ちに陥ってきたところへ、僕の部屋に友だちがちらほらと集まりだした。僕の家では、親からタバコを黙認されていた。そんな家は決まって溜まり場になるもので、僕の部屋といえば、学校でも最大の溜まり場となっていた。みんな僕の部屋でタバコを吸い、雑談したりしてすごすのが日常だった。あらゆる情報が集まる場でもあった。  あの日もある程度の人数が揃ってきたので、僕は頃合いをみて、例のブツをみんなに披露した。案の定、みんな大興奮したが、もっとも狂喜乱舞したのはカチヤマだった。  彼は目の色を変えて下着を次々にあさり、匂いを嗅いだり引っくり返したりして吟味し、やがてその中から、薄いピンク色のパンティを頭にかぶってみせた。  「馬鹿がやりそうなことだ」僕は白けてみていたけれど、他の友だちは「かっちゃんマンだ!」と言って囃した。人から持て囃されるなど初体験であろうカチヤマは、大喜びでピンクのパンティをかぶり、様々な動きをみせた。「かっちゃんマン」はパンティに興奮してなのか、あるいは友だちにウケたせいかなのか、異様に目を血走らせていた。何がそんなに面白いのか、僕にはわからなかった。むしろ、その翌日の事件の方にこそ、僕は大笑いした。  翌日の中学校で、ある伝聞が学年中を走り抜けた。  「かっちゃんが職員室に連れて行かれた。学校に、女のパンティを持ち込もうとしたらしい」  前夜、僕は下着の山などもはや無用だと悟り、友だちみんなにすべて分け与えた。カチヤマは、よほどあのピンクのパンティが気に入ったとみえて、学校にまで持ち込もうとしたようだ。「馬鹿なヤツめ」僕は呆れた。  さらに波紋を呼んだのは、「かっちゃん」の言い訳の愚かさだった。  彼は校門の真正面にある団地に住んでいる。学校との間を通る道路一本のみが、彼の通学路だ。つまり、道路を一本横断するだけで、校門に着いてしまう。そうであるのにカチヤマは、あのパンティを「通学途中で拾いました」と言ってのけたという。大勢の人が通る道だというのに…。  あるいは、その他大勢の人は、パンティを見つけたところでわざわざ拾うことはないかもしれない。でも、先に拾う人があっても不思議ではない。あるいは仮に、カチヤマが誰よりも早くパンティを見つけたというのなら、まだなんとか説明もつく。でも、カチヤマはその日、学校に遅刻して来ていた。いやむしろ、遅刻したからこそ、学校の荷物検査でパンティを発見されたのだった…。  「ホント、馬鹿なんだな」  みんなで笑った。ただ、気になったのは、教師の反応が伝わってこなかったことだ。あるいは「かっちゃん」の言い訳があまりに馬鹿馬鹿しくて、開いた口が塞がらなかったんじゃないだろうか。 ? ■引きこもりの暴君  僕には珍しく、ヒーローっぽい活躍をした話。  中学三年生の頃、僕には「妹バンド」があった。僕は中学二年生で同級生たちとバンドを結成し、三年生になると、学校の催しなどでも何度か演奏した。そんなことがきっかけだったのか、一学年下の女の子から、「私たちのバンドを、先輩たちの妹バンドにしてください」と言われ、僕はよくわからないまま承諾した。…といっても、「妹バンド」とは、具体的にどんな存在なのか?  「兄貴バンド」のリーダーである僕は、具体的に何をすればいいのかもわからず、結局、「バンド兄妹」らしいことは、卒業するまで何一つしなかった。でも、たった一度だけ、「妹バンド」のリーダーの女の子から、放課後に呼び出されたことがあった。  指定された校舎の裏に行くと、その女の子だけでなく、彼女の同級生の男子生徒もいた。用件もバンドとは関係なく、彼女とその男子生徒の交際に関して、問題があるので解決して欲しいというものだった。  彼女の言う「問題」というのには、ハマダという、これまた奇行少年が絡んでいる。  ハマダは僕の同級生で、確かクラスも一緒だったような気もする。なぜそのへんがハッキリしないかというと、ハマダは不登校だったので、学校でみることがなかったからだった。  それでいて、ハマダは夜の校舎に人知れず侵入し、当時はかなり高額だったビデオデッキを何台も、学校の視聴覚室から盗み出したという噂があった。他にもヤツの奇行は数え切れないけれど、話を“妹”の問題へと戻す。  ハマダは学校に来ないくせに、家には連日、下級生を何人も呼びつけているらしかった。そして“妹”も、ハマダに呼び出されるメンバーの一人だという。  ハマダの住まいは、「かっちゃんマン」と同じ団地だった。昼間は親が不在なようで、だから好き放題しているらしい。不登校の男の家に下級生たちが集められる理由は、脅しだった。ハマダは「俺はケンカで無敵だ」とか「俺は有名な不良だ」などと偽り、下級生を脅しては、呼びつけているらしかった。  僕はハマダなる人物が、単に不登校の奇行少年だということしか知らないから、ケンカが強いのかどうかはわからない。ただ少なくとも、「有名な不良」ではないことは間違いない。しかし、それでも“妹”はひどく怯え、また、ハマダの横槍によって、彼氏との関係もギクシャクしているということだった。  具体的には、“妹”はハマダに呼び出されると、いつも軽くペッティングされるらしい。それが死ぬほどイヤで拒否したいのだけれど、いつも脅されて拒絶できないという。それを彼氏にも正直に話し、相談した結果、三年生の権力者として有名な僕に、何とかしてもらおうということになったのだという。  ただ、僕にとって不思議だったのは、ハマダに対する“妹”の反応だった。いかに脅されたといったって、何度もハマダに従い、途中までとはいえ、身体を許してしまう“妹”の気持ちが理解できなかった。また、それ以上にハマダの方も理解できない。ハマダもハマダで、なぜ最後までやらないのだろうか? セックスの手前で寸止めして、どうして我慢できるのだろうか? 僕だったら、自分の意のままになる女の子がいれば、間違いなく最後までやってしまうだろう。むしろ、自分を制御できないのではないか。“妹”の気持ちもよくわからないけれど、ハマダの方もまた、エロな僕には謎だった。  …まあ、なんだかよくわからない案件だけれど、面白そうだったので僕はその頼みを快諾した。  早速、その足でハマダの住む団地へと向かうことにした。すでにハマダへは“妹”から、「話がある」と伝えてあるようだった。  団地の廊下を歩く途中、僕は中二カップルに戦略の説明と指示をした。ハマダの家の玄関先では、二人しかいないふりをして中に入るように。僕がいるという気配を、決してハマダに悟られないように。そして、二人だけでハマダと話し合いを始めるように……。  二人が玄関の前でチャイムを鳴らすと、間もなくドアが開いて、ハマダがドア越しに二人へ中に入るよう促した。「早く入れや」とか、そんな感じで偉そうに言っていたように思う。  ハマダは先に家の奥に入っていったようで、そのあとを追って、二人はドアの向こうへ消えていった。ドアの裏に隠れていた僕は、ドアが閉まる寸前に、音がしないようにドアノブをつかみ、ゆっくり開け直して、身体を玄関の中に滑り込ませた。そしてしばらくはそのまま、息を殺して待機した。  玄関から家の中をみると、正面に廊下があり、その左右の両側に部屋があった。右の部屋では複数の男女〜おそらく下級生であろう男女〜の、小さな話し声が聞こえた。一方で左側の部屋には二人が通されたようで、ハマダと話す声が漏れてきた。  二人は、通り一遍の苦情をハマダに伝えた。二人は付き合っているとか、もう彼女を呼び出さないでくれとか、まあ、普通に言うべきことを、勇気を振り絞って訴えているようだった。しかし、ハマダはのらりくらりと交わすばかりで、話は一向に進まなかった。不毛なやり取りが続くだけだった。  しばらくそんな水掛け論が続いたあと、ついにしびれを切らした彼女の方が、切り札を出した。  「実は今日、ようごさんに相談したんです」  「ようごだぁ? あんなのに相談してどうすんだ? あ? ようごなんか怖くねえけどよー」  「おいハマダ、本当に怖くねえのか?」  ふらりと現れた僕をみて、ハマダは瞬時に絶叫し、何やら謝罪なのか言い訳なのかを叫びながら、土下座して額を床にこすりつけた。僕の顔をみるや瞬時に状況を理解し、それまでのぞんざいな態度から、コンマ三秒ぐらいで土下座に転じた素早さは、ある意味すごいと僕は感心した。あんな素早い動き、普通の人間にはできないんじゃないだろうか? 甲本ヒロトとか、江頭二:五〇とか、身体に特殊なバネのついたような動きをする人はたまにいる。ハマダにもきっと、その能力があったんだと思う。  「いいから顔を上げろ」  僕はそこから、やはり通り一遍の言うべきことを言った。  二度とこの二人に関わるな、他にも同じようなことをしている子がいるのならすぐに解放しろ、次にまた俺の後輩にふざけたことをしたら、次は本気でお前を殺しに来るからな──。  「わかりましたわかりました!すいません!もうしません!ホントにごめんなさい!反省してます!」  ヤツも通り一遍のありふれたセリフではあったけれど、長時間にわたって早口で叫び続けた。僕はその絶叫パワーのすごさに、密かに圧倒されてしまった。  この件に関しては、僕はちょっと「俺って格好いいかも」なんて思ったけれど、その一方で、ハマダのあの絶叫力や、あの俊敏な動きに感服したのも事実だった。  一方でハマダの方では、僕が中学校の中で大きな勢力を持っていて、ケンカもそれなりにこなし、それどころか、周辺の中学校ともケンカしまくっていることぐらいは知っていたようだった。向こうがそれにビビり、瞬時に降参しことで、僕の方も余計な暴力を振るわずに済んでよかった。  ハマダはその後オカマになり、いまは「かっちゃんマン」とあの団地で同棲している…  …というのは嘘で、あの中学校の真ん前の団地にいまも住んでいて、結婚して子供もできて、意外と普通に暮らしているらしい。もっとも、奇行を隠すスキルが上達して、普通に暮らしているようにカモフラージュできているだけかもしれないが…。 ? ■ノブさんのエッチな夢  中学校からの帰り道、親友のノブさんが、前夜にみた夢について話し出した。  その夢というのは、まず、ノブさんが女性をおんぶして道を歩くシーンから始まる。どういう経緯かはわからないが、その女性をおぶって、どこかへ連れて行かなければならない、という設定らしい。  中学生といえば、頭の中は女、性器、セックス、初体験と、とにかくエロいことに満ちている。辞書を開けば「性」とか「精」の字のつく項目をしらみつぶしに探し、ちょっとでもエロい単語を見つけては、胸をドキドキさせたものだ。夢の中のノブさんも、かなりドキドキしながら夢の道を歩いていた。  背中越しに、かすかに伝わる女性の体温や胸の感触、そして耳にかかる吐息…。しかも、ノブさんの両腕は、しっかりと女性の太ももをつかんでいる。それも、お尻に近いあたりだ。  歩き進むうち、太ももをつかむノブさんの指先は、誘われるようにジワジワと、その足の付け根に向かって移動していった。それは仕方ない。思春期の少年が女性の身体に長時間触れていれば、頭がカーッとなって自制などはきかない。次第にエスカレートするノブさんの指先は、やがてお尻の割れ目へとたどり着いた。いよいよゴールは近いというところで、ふいにノブさんも不安になってきた。  (本当にバレてないのだろうか? イヤだと言わないだけで、本当は怒っているんじゃないだろうか?)  冷静な考えが頭をよぎりはするものの、しかし、指の動きはどうにも止まらない。それどころか、すでに指は女性のお尻の割れ目に食い込み、さらに中心部分に向かって進行しつつある…。  (さすがにこれ以上はマズいか…)  不安がふくらみつつも、それでも指は止まらない。もはや、女性の中心部を夢中でまさぐり、ノブさんは、自分が異常なまでに荒い鼻息を発していることにも気づかず、その行為に没頭していった。  (これだけやってもイヤだと言わないから、案外、この子の方も歓んでるんじゃないか?)  ノブさんはもう、やりたい放題にまさぐった。もはや背中に女性の重たさなどは感じない。それどころか、翼を得たように身体は軽くなり、ノブさん自身が、指先そのものと化していた……。  …ここでこの夢は終わる。  この夢の話の締めくくりとして、ノブさんは最後に言った。  「朝起きてさあ、何となくイヤな予感がしたんで指先を嗅いだら、すんげえケツの穴臭えんだよね…」 ? ■真夜中のプールと用務員  中学生の頃、よく夏の夜なんかに学校へ侵入して、プールに忍び込んで泳いだりした。  僕は中学生の頃からお酒を飲むのが好きだったので、友だちと家でよく酒を飲み、酔っ払った勢いで「一丁、泳ぎに行くか!」なんて感じで、真夜中の水泳を楽しんだものだった。  そんなある夏の夜、プールで泳いでいた僕たちは、学校の用務員さんに見つかってしまった。  酔いの勢いもあってか、その夜の僕と数人の友だちは、すっかり「お忍び」であることを忘れてしまっていた。全裸になったり、ゲラゲラと大声で笑ったりして、いつの間にか、自分たちが本来「いけないこと」をしているという自覚が、すっかり吹っ飛んでしまっていた。  「その声はヤマギシだな!」  用務員さんの声が、校舎の壁に反響し、深夜のプールに響いた。  その声を、実は僕らは聞き慣れていた。というのも、その夜のメンバーのほとんどが野球部員で、用務員さんは野球部のコーチでもあった。声で「ヤマギシ」と見抜かれた野球部の友だちは、日頃から声が大きかったこともあって、用務員さんにすぐにバレてしまったのだった。  この用務員さんを、僕らは「むらっさん」と呼んでいた。  このむらっさんもなかなかの曲者で、いわば「奇行オヤジ」だった。  むらっさんはよく、昼間から酔っ払っていた。顔を赤らめ、冬場以外はいつも上半身は白いランニングシャツ一枚という姿で、校庭なんかをふらついていた。小柄だけど筋肉質で、妙にパワフルなオーラを放つ人だった。  野球部のコーチとしてのむらっさんは、やはり酔った状態でグラウンドに現れては、僕らにノックをしたりした。むらっさんは球を打ちながら、「オマンコ舐めてんじゃねえんだぞ!」とか「お母ちゃんのオッパイじゃねえんだぞ!」とか、意味不明なことばを大声で叫ぶ。それらは一応、僕たちに発破をかけているつもりらしかった。僕らが球を受けながらゲラゲラ笑うと、調子に乗ってもっと下品な言葉を口走った。そうかと思うと突然、グラウンドで腕立て伏せを始めたり、鉄棒で懸垂をしだしたりして、日頃から挙動不審な人だった。  そんなむらっさんだから、その夜も僕らを咎めたりもせず、「すぐ家に帰れ」とすら言わず、むしろ自分もパンツ一丁になって、僕らと一緒に泳ぐ始末だった。  むらっさんはひと泳ぎすると、満足そうに用務員室へと帰っていった。案外むらっさんは、用務員特権で日頃から一人こっそり、プールで泳いでいたのかもしれない。実際にあの夜も、酔い覚ましにいつもそうしているかのような、小馴れた感じで泳いで帰っていった。  僕らもそのあと、もう少し泳いでから、夜の中学校をあとにした。 ? ■処女の重みと金玉の痛み  僕がエロいことに強い関心を持ったのは、小学五年生あたりからだった。  友だちとセンズリのこき方を研究したり、エロ本を集めたり、エロに関することなら何にでも飛びついた。狂わんばかりのそうした衝動は、実際にセックスの相手ができた十五歳まで続いた。  中学校の修学旅行で京都・奈良に行ったのは、十四歳の春だった。京都の旅館では、晩ご飯になぜかすき焼きが出たので、みんな大喜びでたらふく食べた。食べ終わって解散となったとき、同じクラスの女子に、「ちょっと来て」と袖を引かれた。  ユウコというその子についていくと、旅館の廊下の先の暗い階段にたどり着き、そこで突然、告白されて交際を申し込まれた。そしてユウコは、ハートがギザギザ状に半分に割れたペンダントを僕にくれた。もう半分の片方は、すでにユウコが首から下げていた。  僕はもちろん、ギザギザ・ハートの合体なんかはどうでもよくて、ユウコと合体できるであろうことにこそ、心の中で狂喜した。思春期の少年にとって恋愛とかはどうでもよくて、エロいことにつながるのかどうなのか、それこそが重大な関心事だった。  ユウコは告ってきた以上、エロいことも許す覚悟があるはずだ。僕らはもう、中学三年生なのだ。セックスしたっておかしくない年頃だ。もう、僕の頭の中はそれだけになった。明日で修学旅行は終わる。次の日は、学校が休みになっている。その日に家に来るようにと、僕はユウコを誘った。その際、まるで僕もユウコが大好きであるかのように、大げさにアピールしておいた。  二日後、ユウコは僕の家に来た。薄いオレンジ色のミニスカートを履いていた。  ちょうど親もいなかったこともあり、僕は早速、ユウコをベッドに押し倒した。  ちなみに僕は、ペッティングは中学二年の頃から、色んな同級生の女の子と体験済みだった。中二から中三にかけての一時期、女子の方からよくお誘いがあって、それは大抵、親のいない週末の女子の家に集まろうというものだった。女子が酒やタバコを用意してくれて、一晩中、酒を飲み、タバコを吸い、誰彼なくイチャつくという、素晴らしい集いだった。女子は大抵、四、五人いるから、僕も人数を揃えて友だちを連れて行った。ただ、不思議と恋愛にまで発展するようなことはなくて、やがてそんな集まりはなくなっていった。その点は残念だし、あくまでペッティングまでしかできなかったけれど、逆に、本番以外は大いに経験を積むことができた。  ベッドに横たわるユウコに対し、僕は色々とがんばった。イメージ・トレーニングで鍛えたテクニックを、さまざま試した。でも、ジワジワと南下した僕の指がパンティに達した時、「まだダメ。そこから先は…」ユウコに制された。ガムシャラだった僕だったけれど、かろうじて手の動きを止めた。「まだ」ってことは、ユウコはいずれ許してくれるだろう。自分でも意外なほど、あっさりとその先を諦めた。  そうとなれば、顔からオッパイまでを何時間かけてどうにかしたって仕方がないので、僕はとっととユウコを送り、ユウコの家の前で別れた。  ユウコを家まで送る途中から気になっていたのが、金玉の痛みだった。ものすごく痛いというか、金玉を蹴られたりするとなる、あの、男にしかわからない苦しさだった。その痛みと苦しみは、三十分ほどおさまらなかった。  その後も、僕はあらゆる場所でユウコとペッティングを重ねた。ペッティングをしたあと、必ず金玉が痛くなった。いくらペッティングを繰り返しても、いくら金玉の痛みをこらえても、ユウコはなかなか最後まではやらせてくれなかった。ペッティング止まりの寸止めが、あまりに不毛に思えてきたので、やがて僕は、ユウコを見切ろうと決意した。そんな頃、ちょうどユウコよりもやらせてくれそうな同級生の女子が告ってきた。すぐにユウコとは別れ、次のエミコという女の子と付き合ったが、これもまたB止まり、つまり、ペッティングまでしかさせてくれなかった。  エミコも早々に見切り、次にケイと付き合おうと決めたとき、僕はエミコに心から謝った。当時の僕は、二股はかけなかった。その代り、すごいペースで女の子を乗り換えていった。春の修学旅行のユウコに始まり、夏が終わる頃にはエミコ、ケイと乗り継いだ。  エミコと別れる際、「俺が一方的に悪い。気が済むまで殴ってくれ」と頭を下げた。エミコは泣くばかりで、僕を殴ろうとはしなかった。なのに次の日になって、突然、エミコが現れた…。  それは学校の昼休みのことで、僕は給食を食べ終え、教室からベランダに出て、こっそり食後の一服を楽しんでいた。ベランダは、同じ階のすべての教室とつながっている。遠くから何やら殺気を感じたのでそっちの方向を見てみると、五十メートルほど向こうから、エミコがつかつかと早足で歩いて来るのが見えた。どうしたんだろう?とタバコの火を消し、立ってエミコの方を向くと、エミコの大柄な身体の後ろに、小柄なユウコもついて来ているのが見えた。二人は間もなく、僕の目の前まで来た。  「気が変わったの。殴らせて」  パチーンという音が、僕のクラスだけでなく、隣のクラスにまで響いていたと、あとからみんなに笑われた。エミコの「気が変わった」という言葉の意味を理解する前に、僕はビンタを食らっていた。さっさと歩き去る二人の後ろ姿を、僕はただ呆然とみるばかりだった。左耳の中が、ピーンっと鳴っていた。エミコの大きめの手を思い出した。  そういえば、エミコのビンタの直後、「そんな人だと思わなかった」と、ユウコまで捨て台詞を吐いていった。僕の振った二人の女の子は、気の多い僕への失望感を共有したようだった。情けないことに、五十を前にしたいまも、僕は「そんな人」のままだ…。  ところで、その頃にはもう、僕は金玉の痛みの原因を自分なりに理解していた。ペッティング止まりだから、つまり、セックスに近い行為をしながら射精に至らないのだから、精子製造工場である金玉が痛むのだと僕は理解した。あれは、お預けを食らった金玉が吠えているのだ。あの痛みは、まさに金玉の慟哭なのだ─。僕なりに、そのように結論を出していた。また、そんな時はすぐにセンズリをこけば、痛みがおさまるということも学習していた。  さて、僕の初セックスといえば、ある時、ひょんなことから成し遂げられた。十五歳の秋だった。  どんな流れだったか覚えてないけれど、学年一のヤリマンのユミが、すごく簡単にやらせてくれた。ユミには、学校の先生ともセックスしてるという噂があった。ビッチだけれど、顔は可愛いし、胸も大きかった。  「処女」が女子にとって大切であろうことは理解していたけれど、僕はそれまで、処女を大切に守りたがる女子ばかりに当たっていた。さんざん寸止めされて、その都度、金玉が吠え叫び、その痛みに苦しみ、それをおさめるためにセンズリをこく…。そんな日々にもう、僕は心底うんざりしていた。そこへユミがふいに現れ、いともたやすくやらせてくれたのだ。  僕は初のセックスに、当然ながら大いに興奮し、狂ったようにガンガンとユミをイカせまくった。ユミはイクたびに僕のほっぺたに噛み付いた。そういう癖なのだろうと僕は理解した。それでも一時間もすると、「痛くなってきたからもうおしまい」と言って、ユミは一方的に引っこ抜いた。「これはまずい」と思い、僕はすぐさまトイレに駆け込み一発抜いた。セックスではちっともイケなかったのに、トイレでのセンズリではすぐに出た。そんな結末ではあったけれど、一応、僕は晴れて童貞を卒業した。  童貞を卒業するや、僕の快進撃が始まった。次々と色んな女の子とセックスした。僕のヤリチン人生は、十五歳の秋から始まった。やがて四十代半ばになって、急に性欲がなくなった。若い頃、狂ったようにやり過ぎたから、あるいは一生分の性欲のほとんどを、若いうちに前借りしてしまったのかもしれない。 ? ■金玉の痛み・番外編  金玉の痛みで思い出した。これは成人してからのことなので、「少年記」としては、いわば番外編。  女性のフェラチオには人それぞれのスタイルがあるようだけど、僕のお手合わせしたある女性は、なかなかハードなテクニックを使う人だった。  彼女はいつも、金玉袋をものすごくきつく吸って、数秒後に「ポンッ!」と音を立てて離すのが得意技のようだった。一回のセックスで、それを何度も繰り返した。  ただ、僕にとってはこれがものすごく苦痛で、金玉袋を強く吸われる時点でも苦しいのに、「ポンッ!」と勢いよく口を離される時は、もっと痛いし苦しかった。思わず「うぐっ!」と呻いてしまったところ、これが彼女を余計にがんばらさせてしまった。僕は苦痛に呻いているのに、彼女は僕がよろこびのあまり、思わず声を漏らしてしまったものと理解したようだった。呻くともっときつく吸ってくるし、「ポンッ!」という破裂音も、より大きくなっていった。僕にとっては地獄の苦しみだった。  彼女自身は、僕によかれと思ってがんばってくれているのだから、僕は「痛い」とは言えなかった。もちろん、呻き声も以後は漏らさなかった。金玉袋を激しく吸い上げられても、呻かないように辛抱した。文字通り歯を食いしばり、腹筋に力を入れてこらえ続けた。そのうち、彼女とは疎遠になっていった。 ■夜這いのマヤちゃん  僕の育った実家では、なぜか玄関に鍵をかけない風習があった。家族みんながそれを当たり前だと受け止めていたので、誰も「鍵ぐらいかけるようにしよう」などと言い出すこともなかった。  そんな家だったし、溜まり場でもあったので、真夜中に僕の部屋に友だちが現れるようなことも、さほど珍しいことではなかった。  中学三年生の冬のある夜、すでに寝ていた僕は、真夜中に急に起こされた。友だちのユウタが彼女のミヤコを連れて、二人で現れたのだった。  二人はまだペッティング止まりの関係だった。何度か合体を試みたけれど、うまくいかないと言っていた。そしてその夜、どうしてそうなったのかわからないけれど、二人は僕の部屋でトライすることにしたのだと言う。  「ここでやってみるから、隣の部屋から布団持って来ていい?」  ユウタは別の部屋から布団一式を運び込むと、僕のベッドの隣に敷いた。僕は相手にせず、ベッドに寝たままだった。  「もう、勝手にやってくれよ」  僕はユウタたちに背中を向け、頭から布団をかぶった。  とっとと寝なおそうと思ったけれど、少しすると、布団を通して妙な会話が聞こえてきた。二人のセックス・トライの会話だった。  「いくぞ? 我慢しろよ? いいな?」  「……痛ッ!」  ユウタが入れようとしたら、まだ処女のミヤコが小さく悲鳴をあげたようだ。  「おかしいな。もうちょいだから我慢しろ」  「あ痛たた! …んもう、痛いから無理!」  「なあ、もうちょっとなんだから我慢しろよ。いいな? いくぞ?」  何度もそんなやり取りをされて、真横のベッドで寝ている僕にはとんだ迷惑だった。でも、「これじゃあ眠れそうにないや」と思っている間に、いつしか僕は眠っていた。  次の日の学校で、ユウタは顔を合わせるなり、得意げに親指を立ててみせた。どうやら昨夜、ミヤコとの初セックスに性交、いや、成功したらしい。  それから半年ほどしたのち、なぜかミヤコが一人で僕の部屋に現れ、「ユウタとは別れた」と言って裸になった。当時、僕には彼女がいたけれど、せっかくなのでやらせてもらった。すると次の日、キレた状態のユウタが突然、僕に殴りかかってきた。別れたと聞いていたのに、そうではなかったらしい。ユウタの強烈な右ストレートを一発食らったけれど、僕としては複雑な心境で殴り返せなかった。ただ、女の言うことは今後、うかつに信じてはいけないと思った。  そのほぼ一年後、そのときも真冬の真夜中のことだった。やはり寝ていた僕は、部屋の明るさに気づいて目を覚ました。寝るときは当然電気を消すから、部屋が明るいのはおかしい。それに、どうやら人の気配らしきも感じられる…。  「なんで電気がついているんだろう…」  天井から吊り下がった電灯をぼんやりと薄目で見ていると、目の前に女性の顔がぬっと現れた。逆光だから、顔はよく見えなかった。  「泊まるところがなくなっちゃったから泊めてね」  言うなりその女性は服を手早く脱ぎ、下着だけの姿になって僕のベッドに潜り込んできた。目が覚めかけてから一分と経たない間に、まるで理解できない状況に引きずり込まれてしまった…。  「え? …ちょっと誰?」  僕はベッドの中で上半身を起こし、隣に侵入してきた女性をみた。女性はベッドに横たわったまま、顔だけを僕に向けてみせた。  「ん? ……もしかして、マヤちゃん?」  「うん、どうしても寝るところが見つからなかったから。ようご、元気そうだね」  僕はすっかり目が覚めてしまい。とにかくまず、冷静に状況を理解しようとつとめた。  マヤちゃんというのは、僕が中学二年生の時の同級生で、クラスも一緒だった。でも、僕がマヤちゃんを教室で見たのはほんの数回だけだった。マヤちゃんは転校生で、二年生から僕らの学校に転入してきた。噂では、マヤちゃんはほとんど学校に来ない人で、何度も転校していて、すでに四年ほど留年し続けているとのことだった。だから、実際には僕たちよりも四歳ぐらいは歳上なのだと言われていた。  そのマヤちゃんは、やはり僕らのクラスにも数回だけ登校したきり、やがて行方も知れなくなった。僕にとってはただそれだけの関係で、特に親しく話したこともなかった。「ようご」とマヤちゃんに呼ばれたのは、この夜が初めてのことだ。中学生のときは、名前を呼び合うほどの接点すらなかった。ただ、当時から僕はいつも目立っていたから、マヤちゃんが僕のことを覚えている点については、さほど不思議ではなかった。  (…とはいえ、なんで家まで知っているんだろう?)  (…そもそも、初めて来た家の中で、どうやって俺の部屋を見つけたんだろう?)  家の二階には、部屋が全部で四つある。そのうちの一つが僕の部屋だけど、マヤちゃんはどうしたわけか、誰にも気づかれずに僕の部屋に入り、さらに僕のベッドにまで入り込んだのだった。  マヤちゃんは、まるで当たり前のようにベッドで寝ている。その傍らで、僕は混乱する頭を整理しようと必死だった。とりあえずベッドを出て、石油ストーブに火を点けた。真冬の夜とあって、部屋は冷え切っていたからだ。  (酒でも飲まないと、気持ちが落ち着かないな)  僕は階下に降り、冷蔵庫からビールを取ってきた。部屋が明るいとマヤちゃんも眠れないだろうと、部屋の電気は小玉に切り替えた。  薄暗い部屋で、石油ストーブの前に座り、オレンジ色の火を見ながらビールを飲んだ。それでもなお、頭は混乱したままで、僕の心はもちろん落ち着かず、ビールを次々とグラスに注いでは飲んだ。あっという間に一本空いてしまったので、また階下の冷蔵庫から、ビールをもう一本取ってきた。部屋に戻ると、マヤちゃんがベッドの中からこっちを見ていた。  「ビール飲んでるの? あたしも飲みたいな」  スルリとベッドから抜け出ると、マヤちゃんはストーブの前に座った。そして僕の使っていたグラスを持ち、「注いで」と言わんばかりに、僕の前にグラスを突き出した。つられて僕は、ビールを注いだ。マヤちゃんはブラジャーとパンティだけの姿で、「コクコク」と喉を鳴らしてビールを飲んだ。  僕はどうしていいかわからないまま、とりあえず寒かったので、ストーブの前に座った。その瞬間、「寒いっ」と小さく震えながら、裸同然の姿のマヤちゃんが、僕の身体にしがみついてきた。  「いや、マヤちゃん、まずいよ。そんな格好でくっつかれたら、俺だって何するかわかんないよ?」  「シー……」と、白人女が映画なんかでやるように、マヤちゃんは人差し指で僕の口をふさいだ。そのまま実に自然なようすで、実に手慣れたようすで、四つ歳上のお姉さんは僕を導いた。僕はもちろん、無抵抗で身を委ねた。歳上女性のテクニックに満ちたセックスは、僕も初めて体験するような内容だった。ことが終わると、僕たちは静かに眠りに落ちていった…。  翌朝、目が覚めたらマヤちゃんはいなかった。  あの夜以来、僕は一度もマヤちゃんと会っていない。クラスのみんなが「マヤちゃん」と呼んでいたから、僕もかろうじてそう呼ぶことができた。でも、名字も知らないし、下の名前の本名も知らない。ましてや、連絡先など知るよしもない。  (あの夜は一体、なんだったのだろう……?)  あの冬の夜、煙のように現れたマヤちゃんは、僕に「謎」という置き土産を残し、煙のように消えていったのだった。 ? ■卒業間近の奇行決戦  中学校のツッパリ仲間で、オサダという奇行少年がいた。  開業医のせがれだから、家は金持ちだった。でも、オサダ本人は医学部に進むどころか、中学校の卒業式にすら参加できなかった。あとで聞いた話だと、みんなが卒業式を済ませたあと、一人だけ校長室かなんかで特別に卒業させてもらったらしい。もちろん、勉強の出来も悪かった。  僕たちは「ツッパリ」を二年生の頃にやめた。「ツッパリはもう流行らない」というのが理由の第一で、僕には別に、もう一つ個人的な理由があった。それは、野球部を首にならないためだった。  過去にも色々と問題を起こしていた僕は、そのときも部室でタバコを吸っていたのが教師にバレてしまい、野球部の監督から最後通告を受けた。  「今度また何か問題を起こしたら、さすがにもうかばえないからな。その時は残念だけど、野球部を辞めてもらうからな」  過去に起こした数々の問題が累積して、もはや監督としても限界のようだった。野球部は辞めたくないから、僕はこの際、きっぱりツッパリをやめ、野球部にいる間はタバコもやめようと心に決めたのだった。同時に、ツッパリ系のグループでもリーダー格だった僕は、みんなにもツッパリをやめさせた。別にツッパリというスタイルに固執しなくても、以後もつるんで遊べるのに変わりはない。でも、オサダだけはツッパリをやめなかった。オサダの場合、ツッパリ以外にアイデンティティを見い出せなかったのだろう。結果、オサダと僕らとの接点は激減し、やがて僕らの間で、オサダの存在は次第に風化していった。  やがて僕たちは三年生になり、そして卒業も間近に迫った頃、急にオサダから電話があった。僕は自宅でその電話を受けた。  オサダは僕の彼女と、カチヤマ(パンティのかっちゃんマン)の彼女を拉致しているという。僕らをツッパリに育ててくれた二学年上の先輩がいて、その先輩の家で二人を預かっているという。そして、二人を返して欲しかったら、自分と決闘しろと言ってきた。  もちろん、僕はそれに応じるとこたえ、ちょうど僕の家にいたカチヤマと、チャリンコで先輩の家へと向かった。  先輩の家に着くと、オサダは興奮したようすで待ち構えていた。先輩の家の中に、僕の彼女とカチヤマの彼女がいた。オサダは彼女たちそれぞれに電話をかけ、僕とカチヤマがもうすぐ来るから、先に先輩の家に来て待っているようにと、嘘をついて呼び出したらしい。それはあとで彼女から聞いた。  それにしても、オサダはなぜ突然、こんなわけのわからないことを思いついたのだろう?  僕らとオサダとの間で、特に揉めごとがあったわけではない。ツッパリのつながりがなくなって、疎遠にはなっていたけれど、特に衝突することはなかった。オサダが僕ら二人の彼女を狙っていたようすもないし、現にその場にいた彼女たちをみても、オサダから危害を加えられたようすはなかった。  まったく、オサダの狙いも目的もわからない。ただ、僕らがあっさりツッパリをやめ、だけど自分だけはやめられず、寂しかったからこんなことを思いついたのではないか。卒業前に寂しくなって、一発ごねてみせようと思ったんじゃないだろうか…。  よくわからないけど、僕はオサダの求める「決闘」とやらを始めることにした。  相手はオサダ一人だから、僕がオサダとタイマンを張ることにした。  「俺一人でタイマン張るから、カチヤマは下がっててくれ」  カチヤマは頷いて後ろに下がり、僕はオサダの前に出た。  「そっちは二人なんだから、俺はこれ使うからな」  言うなりオサダは、木製バットで僕を殴ってきた。ただ、本気でやる気なら頭を狙うはずなのに、僕の上腕に殴りつけてきた。本気で僕を倒したいのではなく、やっぱり拗ねているのだろう。  「俺一人でお前とタイマンだ」  言うや僕はオサダに突進し、すかさず木製バットを取り上げ、脇へと放り投げた。  「いいな? 俺とタイマンだぞ」  オサダは「よし」と頷いた。  あの日のタイマンは、それまで僕がしてきたケンカの中でも、一、二を争うほど激しい殴り合いになった。オサダが空手を習いだしたという噂は、ずいぶん前に聞いていた。オサダのケンカは、ツッパリ時代に何度も僕はみてきたから、正直、僕の楽勝だと思っていた。でも、オサダは思いのほか手ごわく、空手を学んだ成果なのか、かつてよりもだいぶ強くなっていた。  僕とオサダは激しく打撃を交え合い、お互いに血まみれになった。僕も結構パンチをもらい、口の中が切れて痛くなってきた。いい加減、打撃戦がイヤになってきたし、明らかに僕の方が優勢だったので、僕はオサダを、ヘッドロックで締め上げることにした。  「お前の負けだ。認めろ、オサダ」  首を完全に極められたオサダは、口と鼻からドボドボと血を流した。僕のいつもの悪い癖で、ケンカで相手に怪我をさせるとつい、申し訳なく思ってしまう。この時も、オサダがすごく可哀想に見えて、心の中で「ごめん、オサダ」と言い続けた。そして、早く降参してくれることを願った。  「早く負けを認めろ!」  早く終わらせたい僕は、より一層強く、オサダの首を締め上げた。  …でも、よく見るとどうやら、オサダは落ちそうになっているようだ。僕が強く首を締めていたので、降参しようにも声が出せず、そればかりか、意識がもうろうとしてきたようだった。  そうだったか…。僕はヘッドロックを解いた。オサダは、ぐでーんと道路に転がった。  「勝った」  そう思って後ろを振り返ると、ちょうど警察官が二人、僕のすぐ後ろまで来ていた。住宅街の路上で派手に闘っていたので、近所の住人が通報したのだろう。  僕らは警察に事情を話し、少し説教されたあと、解放された。僕とカチヤマの彼女たちも、いつの間にか解放されていた。中学卒業後もワルのままだった先輩は、警察が来たのを敏感に察したようで、いつの間にか、しっかり家の雨戸まで閉めていた。先輩らしいなと思って、少しおかしかった。  あの日のオサダの目的は、最後までわからなかった。だからこそ「奇行」ではあるのだけれど…。  家に帰ってジュースを飲もうとしたら、口の中の傷にしみて、痛くて飲めなかった。ケンカで怪我らしい怪我をしたのは、思えばこの一度だけだった。これが僕にとって、中学生時代で最後のケンカだった。 ? ■学ラン男子がゆく  高校三年間における僕は、あまりお金に困らない方だった。  デパ地下のラーメン屋でかなりガッツリとバイトをしていたし、親元で暮らしているから、手にしたお金はすべて、自分の遊びや欲しい物のためにつかえた。いわゆる犯罪動機でいう「遊ぶ金欲しさ」が、僕をバイトに駆り立てたきっかけの一つだった。  デパ地下のバイトが夜の十一時半に終わると、よくバイト先の先輩たちから「帰りに一杯やるか」と誘われた。あの頃は大衆居酒屋だって、店によっては学生服のままで普通に入れた。バイト仲間同士で駅前の居酒屋で飲み食いし、さらに店をかえて朝まで飲んだりした。朝まで飲めずに眠たくなれば、駅前のカプセルサウナに泊まったりもした。これらはいつも学ランで、つまり学生服のままで行動した。酔っ払って外泊して、家にも帰らずに学校へ行くときなど、電車で乗り合わせた友だちから、「ようさん、また酒臭えよ」なんて、よく言われたものだった。  僕の高校には中間試験と期末試験とがあって、それぞれの試験期間中だけは、バイト先で休みがもらえた。それ以外は基本、午後五時から十一時半までガッツリとバイト先に拘束される日々なので、試験期間こそ、僕が自由に遊べる貴重な時間だった。バイトをしている他の友だちも、やはり同じように、試験期間には休みがもらえるようだった。  僕の高校の友だちにはギャンブル好きが多く、試験期間になると、僕らはパチンコを打ち、麻雀を打った。パチンコ屋でも雀荘でも、僕らは学校から学ランのままで出掛けた。平然とタバコをふかしながら、ギャンブルに興じたものだった。時代がそういったことに寛容だったこともあるけれど、そういうことが咎められない店を、僕らはよく知っていた。特に後ろめたい商売をやっているお店、例えば、喫茶店の奥の隠し部屋で闇賭博ゲームなんかをやっているようなお店などは、悪そうな学生ほど安心して迎えるぐらいの雰囲気があった。  このような高校生活が送れたのは、あるいは昭和という時代であったからかもしれない。「送れた」というと、こんな高校生活を肯定しているように思われそうだけど、決してそういうわけではない。ただ、いまほど目くじら立てられずに見過ごされていた、という意味だ。  仮にいま、僕が高校生であったとしたら、多分、学ラン姿でここまで好き放題はしないと思う。何をしたって世間の受け止めが暗くてネガティヴだから、堂々とワルをする気には、はじめからならないと思うのだ。 ? ■ビキニパンツと女教師  高校一年生の時、友だちの家で遊んでいたら、衝撃的な写真を見つけてしまった。  写真といってもカレンダーのことで、それは、友だちのお姉さんの部屋の壁に飾られていた。  友だちのお姉さんは郷ひろみのファンらしく、その写真には、パンツ一丁の郷ひろみが写っていた。  衝撃的だったのはそのパンツで、いわゆる「ビキニパンツ」だった。僕はもちろん女性のビキニ姿は大好きだったけれど、男性にもビキニパンツがあるなんて、知らなかったし想像したこともなかった。  「こんなパンツがあるんだ…」  強い衝撃を受けた僕は早速、次の日にはビキニパンツを探しに出掛けた。  いまでは「イオン」になっているそのスーパーは、その前に「サティ」と名乗り、しかし、元は僕が小学六年生の時に「ニチイ」として誕生し、僕の高校生時代でも、まだ「ニチイ」だったと思う。  「ニチイ」の二階の下着売場で、ビキニパンツは意外にもあっさりと見つけることができた。早速、僕は三枚ほど購入し、家に帰るとすぐに履いてみた。  鏡に映る自分を見て、僕は非常に複雑な思いになった。  郷ひろみのビキニパンツもヘンだったけれど、僕のビキニ姿もやっぱりヘンだった。いや、郷ひろみファンの女性からみれば、郷ひろみの方は格好よかったり、「セクシー・ユー」だったりするのかもしれない。でも、男子の僕から見れば、あれは明らかにヘンだった。事実、友だちの家でその写真をみたとき、僕と友だちは「なにこれ、キモて〜」とか言いながら、ゲラゲラ笑ったのだった。  鏡の中に立つビキニパンツの僕も、やっぱりヘンだ。ただ、一人でゲラゲラ笑うほど、面白いかと言えば微妙だった。でも、友だちが見ればきっと、腹を抱えて笑ってくれるのではないだろうか。次の朝、僕はビキニパンツを履いて学校に向かった。  さて、僕の人生というは、どうにもタイミングの悪いことが多いように思う。  ビキニ初登校のその日、高校の体育館では、身体検査が予定されていた。それが僕に、思わぬハプニングをもたらした。  僕はまず、教室で同級生たちに、自慢のビキニパンツを披露した。案の定、同級生たちには大ウケだった。しかし、身体検査の現場である体育館には、さすがにその姿のままで行くのに気が引けた。  幸い、僕らの高校の夏用の体育着が、軽い素材の短パンだった。体育館ではパンツ一丁になるよう、担任の教師から言われていた。パンツ一丁が下着だろうが、体育着の短パンだろうが、大きな違いはないだろう。体育着の下にビキニパンツを履いていたって、先生は気づかないだろう。僕は問題なく乗り切れると自信を持って、同級生たちと体育館へ向かった。  体育館に着き、いくつかの検査を滞りなく進めていくうち、やがて、女教師が担当する検査場に行き着いた。何の検査だったかは覚えてない。ただ、会議テーブルが置かれた向こうに、やはり会議用っぽい椅子に座った女教師がいた。  その女教師というのがちょっと目立つ感じの人で、体育教師になるぐらいだから、学生時代は何かスポーツをしていたのか、背がスラッと高く、よくいえばモデルのような体型をしていた。しかも、顔も割りと派手な感じで、これまたよくいえば、宝塚の男役にでもいそうな顔立ちだった。  「あんた、なにそれ。検査は下着で受けるように言われたでしょう? あんたの履いてるの、体育着じゃない。脱ぎなさい」  意外にも、僕の順番がくるなり女教師は僕の体育着短パンを咎めてきた。それまで他の男の先生たちは、何も言わなかったのに…。  僕はどうしようかと迷ったけれど、「これ一枚しか履いてないんです」と嘘をついてしまった。  「先生、中にちゃんとパンツ履いてますよ」  すかさず隣りにいた同級生が、笑いをこらえながら女教師にチクった。  僕の顔から、一気に血の気が引いた。  「いや、先生、ホントにこれしか履いてないんです」  「とにかく下着で受けるのが決まりなんだから、下着に着替えて来なさい」  冷たく言い放つ女教師に対し、僕はムカッときて瞬時に決意した。  (よおし。脱いでやろうじゃないか…)  そうと決まれば、僕は決然と体育着の短パンを脱いだ。そのまま「どうだ!」と言わんばかりに、女教師の前で胸を張った。  「エェーッ!! あんた何よそれ〜〜〜!」  女教師は僕のビキニ姿を見るや、悲鳴と共にその場でのけ反り、椅子から危うく転げ落ちそうになり、それでも何とか、体勢を立て直して椅子に座り直した。でも、なぜか横向きに座り直していた…。 横を向いた女教師は、一向に僕の方を見ない。さっきまで誇りと自信に満ちた宝塚の男役は、もはやそこにいなかった。すっかりオーラも威厳も剥がれ落ち、何かに怯える少女のようになってしまった。視線は落ち着きなく泳ぎ、どこを見ていいのかわからないようだった。なにもそこまで…と、僕は女教師の反応が、大げさ過ぎるだろうと思った。僕のビキニパンツは、そこまで恐ろしかっただろうか? あれではまるで、窓を開けたら目の前に化け物がいたぐらいの反応だった。  女教師は内心、高圧的な態度で僕を咎めたことを悔いているのだろう。そのようすをみて、すっかり僕の腹の虫もおさまった。「勝った」と思った。  「やっぱり履いた方がいいッスよね?」(ニヤリ)  「だったらすぐそうして!」  吐き捨てるように女教師が言った。僕はあらためて、「勝った」と思った。  あのときの気分はなんというか、実に晴れ晴れとしたものだった。ちょっときれいだからといって、男にむかって居丈高に威張る女の鼻を、パンツ一丁でへし折ってやったのだ。それに、パンツ一つであれだけの騒ぎになったのは、僕にとっては痛快な出来事だった。  同級生たちは、ことの顛末を僕の周囲で見物しながら、ときに爆笑し、ときに固唾を呑んで見守った。僕は寸劇の主役だった。美人教師がプライドを傷つけられたシーンなどは、男子高校生にとってさぞ快く、さぞエロく、のちにもエロ心をくすぐる光景だったに違いない。  意図せぬ顛末だったとはいえ、僕はすっかりこの事件をもって満足し、以後、ビキニパンツを履かなくなった。そもそも、笑いをとる以外に使いみちのないパンツだし、笑いをとるにしても、同じ相手に二度目は通用しない代物だ。同じパンツ絡みでも、図に乗って墓穴を掘った「かっちゃんマン」とは違うのだ。? ■高校の奇行王  高校の同級生で、僕よりもはるかに奇行の激しい男がいた。  高校二年生のある日、休み時間に教室でオイチョカブをしていると、数人の同級生が駆け込んできた。  「ようさん、ちょっとすぐ来てよ」  連中が言うには、「イマイさんがトイレを占領して、誰も入れてくれない」ということだった。そのイマイこそ、僕をもはるかにしのぐ奇行王だ。  (イマイのことだから、またわけのわからないことをしているんだろう…)  イマイは、学年のみんなから恐れられていた。単に暴力的であるというのではなく、「何をしでかすかわからない」という、予測不能な恐ろしさだった。  「イマイさんを止められるのは、ようさんぐらいしかいない」  高校のみんなからよく、そんなことを言われた。オイチョカブの最中の僕が呼ばれたのも、僕以外に解決できない事態だったからだろう。  僕は仕方なくオイチョカブを中断し、廊下を歩き、トイレの前に立った。イヤな予感をおぼえつつ、「イマイ、開けるぞ」と、一応はことわってトイレに入った。入るなり、思わず僕は吹き出してしまった。これだからイマイの行動は理解できない。扉を開けた僕の正面には、下半身が裸で、小便器に座り込むイマイの姿があったのだった。  小便器といっても、床から上に向かって長方形に伸びたタイプではなくて、股間の真ん前あたりに、半球状の便器があるタイプだ。かつて僕の弟が、ビチグソを受けた学帽のようなものだ。イマイはそこにドッカリと腰を下ろし、全身で踏ん張りつつ「ウンコが出ねえんだよ」と呻いた。「大便器がダメだからって、小便器なら出るってもんじゃねえだろう」と突っ込みつつ、僕はイマイの異様な姿に顔をしかめた。やや中腰のような体勢で、上半身は詰め襟の学生服だけど、下半身は裸なのだ。  「みんな、トイレに入れてくれないって言って困ってるぜ。   …ってゆうかイマイ、もう、ウンコ出てんじゃん!」  なんとなくイマイの姿を見ていたら、黒いなにかが目についた。よく見ると小便器の中に、すでにぶっとい一本グソが、黒ぐろと横たわっているではないか…。  「わかった、もう出るわ」  イマイは照れ笑いしながら言った。そこからイマイがどうトイレットペーパーを取りに行き、どうケツを拭くのかとか、そういうのは見たくなかったので僕はトイレから出た。  廊下に集まっていた同級生たちに、「あと一、二分で出てくるよ」と言い残して、僕はオイチョカブの続きをしに教室へ戻った。  あとになって聞いた話だと、そのトイレの隣のクラスの担任教師が、たまたま小便器に鎮座する立派な一本グソを発見したらしい。次の授業の始めに、「誰がやった」と生徒たちに問いただしたものの、当然、誰も口を割る者はいなかった。みんな、イマイを恐れていたからだ。  イマイはこの他にも、「なぜわざわざそのようなことをするのか?」という謎の行動、奇行の中の奇行というべき行動を頻発した。むしろ、イマイがしごく真っ当な行動をとると、かえって周囲が不気味がるほどだった。あらゆる言動や行動が、僕たちの理解を超えていた。  例えば、万引き一つとっても、イマイは独特だった。僕たちが高校生だった頃、DCブランドが流行り、次にアメカジが流行った。流行り物は金になるので、僕らは高校生にもなって、ブランド品を万引きしては、学校で同級生たちに売り捌いて小遣いにした。万引きにも美学があるのだ…とばかり、僕たちは万引きのスマートさにもこだわった。周囲に一切気づかれず、疑われもせずにスティールする。エレガントでない万引きは、仲間の間で軽蔑された。  そんな中にあって、イマイだけは違っていた。例えばアメ横の露天で、二十万円もする革ジャンをいきなり引ったくり、全力疾走で逃げたりした。イマイは逃げ足の速さでも有名だった。ただ、僕たちのは万引きだけど、イマイの場合は強奪だったり、略奪だった。店員にバレようが、多くの衆人に目撃されようが、ブツを手に入れて逃げ切れば勝ち、そんなやり方だった。  高校を卒業してからしばらく経って、久しぶりにイマイから電話がかかってきた。「すげえいい話がある」というので会ってみると、暴力団の組長を誘拐し、組から身代金をせしめる、という話だった。それを手伝えば、僕にも莫大な金が入ると言われた。もちろん、僕はその場で断った。  成人してのちも、イマイは知人をボコボコにして、暴行容疑で逮捕されたりしたらしい。そのときについた弁護人というのが、「海老蔵をボコボコにして捕まったやつの弁護士だった」と、イマイは愉快そうに話していた。  いまは会社経営のほかに慈善活動なんかもしているらしいけれど、変わらず奇行癖はご健在らしい。 ? ■キャロライン洋子と男の宝  あとで考えれば、あれのせいでああなったのか…と、事後に因果関係を理解することがある。  高校二年生か三年生の頃だった。  その夜、たまたま早い時間にベッドに入ったけれど、ちっとも眠れなかった。  眠らなきゃ…と思うほど、心臓がバクバクいって眠れない。それどころか、妙に気分が高揚して、やがて「こうしちゃいられない!」と、僕はベッドから飛び起きた。  こうしちゃいられない…といったって、何をすることがあるだろう? もう、十二時を過ぎている。  ふいに、近所に新しいスナックができ、それも知り合いがママをしていることを思い出した。だったら行ってみるべ!と、僕は服を着て家を出た。  そのスナックは、歩いて数分と近かった。  「あら、ようご君。いらっしゃい」  知り合いのママは、遅い時間なのに悪い顔もせず、僕をカウンター越しに迎えてくれた。  ウイスキーの水割りを飲みながらママと少し話したあと、別の女の子がカウンターについた。いまでは名前も思い出せないけれど、キャロライン洋子が太ったような子だった。身体は太いけれど、顔はハーフみたいな感じで派手だった。僕とは違う中学校だったけれど、彼女は僕の名前を知っていた。中学生の頃、派手にケンカしたりしていたせいか、市内の別の中学校でも、割と僕の名前は知られていた。もちろん、当時「ツッパリ」と称した種類の人間であればの話だ。  キャロライン洋子とはすぐに仲良くなり、早速、お店が終わったら一杯やろうということになった。  駅前に、明け方までやっている居酒屋がある。お店が終わると、僕たちはキャロライン洋子の乗る原付きに“ニケツ”して、駅前の居酒屋へと向かった。その原付きは、当時流行っていたピンクのクレージュのタクトだった。僕が運転したけれど、もちろん無免許だ。当時の僕は、無免許で車でも中型バイクでも、フォークリフトでさえも運転した。  居酒屋で盛り上がったあと店を出て、僕らは再び、ピンクのクレージュでラブホテルへと向かった。いまなら原付きにノーヘルでニケツで、しかも酔っ払っていたら大変な重罪になる。もちろん、当時でも捕まれば十分に重罪だけど、でも、あの頃はその程度のことをする人がいくらでもいた。  しけこんだラブホテルにおいて、その夜の僕はすごかった。僕よりもガタイのよさそうなキャロライン洋子を相手に、ガンガン攻めまくった。逆に、キャロライン洋子ぐらいのガタイでなければ、あの夜の僕の猛攻に耐えられなかったのではないだろうか。ようやく僕が満足した時、窓の外はすっかり明るくなっていた。  いかにセックス三昧だった当時の僕でも、大抵は一度で終わる。だけど、その夜はどれだけやったかわからないぐらい、もう、止まらなかった。僕は高校生だったけれど、キャロライン洋子は中卒でスナックのホステスをしていた。職業柄、僕よりも豊富な性体験をこなしていたようだった。そのキャロライン洋子をして、「こんなにすごいの初めて」と言わしめた。  それにしても、あの日の僕は、どうしてあんなにすごかったのだろう?  その理由は後日わかった。あのパワフル・ナイトの原動力は、「男宝」だった──。  あの日は、ちょうど弟が台湾旅行から帰ってきた日で、弟が土産だといってくれたものが、「男宝」と書かれた瓶詰めの精力剤だった。  「早速、飲んでみようぜ」  僕と弟と、弟の友だちや僕の友だちが数人、僕の部屋にいた。みんなで「男宝」の錠剤を飲んでみた。飲んでみたところで、何がどうなるわけでもなく、弟が台湾のホテルで霊体験をしたとか、そんな土産話を聞きながら雑談し、やがてその夜は解散した。  その後、僕はシャワーを浴びて寝た。でも、眠れなかった。この時点で、おそらく「男宝」が効いていたと思われる。確かに、やけに興奮して眠れなかった。やがて寝床から跳ね起き、スナックへ行き、酒を飲み、キャロライン洋子と朝までセックスした。夜が明けるまで、興奮しっぱなしだった。  その後、僕は「男宝」を再び試したことがあった。二十歳代のある時期、セックスがスランプになったことがあった。そのとき、「男宝」のあの夜を思い出し、国内で「男宝」を手に入れる手段を探し、そして買って飲んだ。でも、不思議なことにちっとも効かなかった。  似たような体験としては、アリナミンがある。たまたま差し入れでもらったアリナミンを初めて飲んだとき、飲んで一時間ほど経つと、ビックリするほどハイテンションになった。「高揚感」というものを初めて体験した。わけもわからず、妙に幸せな気分だった。「こりゃいい」ってんで、しばらくしてまたアリナミンを飲んでみた。でも、最初の高揚感は得られなかった。「男宝」にしてもアリナミンにしても、最初の一度はすごく効くけれど、あるいはその一度で、体内に耐性とかそういう何かができてしまうのかもしれない。あくまでこれは、僕の推測にすぎないが…。 ? ■無免許少年の曇天  僕は本当に、両親に迷惑ばかりかけて育った。飲酒、喫煙、ケンカや窃盗など、学校の先生に親が呼び出されるようなことをたくさんやってきた。そんな中でも、あの日の事件は、別格で深刻なものだった。  高校二年生の晩秋のある朝、僕はうっかり寝坊をしてしまった。ベッドから飛び起きて学生服を着て、階段を駆け降り、洗面と歯磨きを手早く済ませた。身だしなみがひと段落してみると、家の一階がいやに静かなことに気づいた。家族はみんな、すでに出掛けたようだった。  とにかく急いで駅に向かおうと玄関を出ると、道向かいの駐車場に、母の車が停めてあるのが見えた。かつて工場の社員寮だったその場所は、火事で焼け崩れたあと、駐車場になっていた。  「いっそ車で行った方が早そうだ」  僕は母の車のキーを取りに、玄関の奥へと戻った。  キーは電話機のそばに置いてあった。僕はキーを掴みつつ、ついでに、モリヤマという友だちに電話してみた。遅刻の多いやつだったし、学校に行く途中に家がある。念の為と思って電話したところ、やっぱりこの日も、モリヤマはまだ家にいた。  「俺、いまから車で学校行くけど、拾っていこうか?」  「助かるよ。俺も遅刻しそうだったんで」  僕はその頃、たまに父や母の車があると、それに乗って学校に行くことがあった。特に父のBMWは、当時流行っていたこともあり、同級生のJKがホイホイ釣れた。「今日の帰り、ビーエムで送ってやろうか?」そう言うと、大抵のJKは乗ってきたものだった。でも、この日は母の車だった。  母の車に乗ってモリヤマの家まで走り、モリヤマをピックアップすると、学校へと向かった。  学校に行く途中、真っ直ぐな道のある一部分だけ、工事の関係か何かで、クランクになっている場所があった。僕はシフトダウンして、クランクに差し掛かった。左へ曲がり、すぐに右に曲がり、少し走ってまた右に曲がろうとした時、ダッシュボードにあったカセットテープが、遠心力で左に流れた。僕は前に一度、同じような状況で、カセットテープを車外に振り落としてしまったことがあった。  「モリヤマ、そのテープ押さえて」  助手席のモリヤマに向かってそう言うと、「ガシャン!」という大きな音と共に、車に強い衝撃が走った。ビックリしてブレーキを踏み、前を見ると、車の前の路上に人が倒れていた。その横には原付きバイクが倒れていた。僕の運転する母の車は、反対車線に食い込んでいた。僕がハンドルを右に切ったまま脇見をしている間に、車線を超えてしまったようだった。そこへ原付きが向かってきて、正面衝突してしまったのだった。  僕らはすぐに車を降りると、道路に横たわる男性の脇にしゃがみ込んだ。一見して、大きな外傷はないようだった。  「犯人はお前だなぁ〜?」  道路に倒れた男性は、妙な声で、妙な話し方をした。頭を強く打ったのかと心配になった。男性は、フルフェイスのヘルメットをかぶっていて、顔はよくみえなかった。  「モリヤマ、お前いますぐ救急車を呼んで、そこから電車で普通に学校に行ってくれ。俺のことはみんなにも黙っておいてくれ。警察には俺一人で乗ってたことにするから、いいな?」  モリヤマは頷いて、小走りに公衆電話の方へ向かった。僕は「大丈夫ですか? すぐに救急車が来ますから、じっとしておいて下さい。どこか痛いところはありますか?」と、男性のそばで必死に話しかけたが、相手は「うー」とか「あー」とか言うばかりで、怪我の細かい状況はわからなかった。  やがて、パトカーと救急車が来た。男性は救急車で運ばれ、僕はパトカーに乗せられた。  警察官と現場検証をしているとき、空を見上げながら僕は思った。  「これで学校も退学だ。高校中退か。少年刑務所に入るかもな。俺の人生、終わったな……」  僕の重たい気持ちを象徴するような、どんよりとした灰色の曇り空だった。その重厚な雲が、僕にどっしりとのしかかるように感じられた。あの空の色を、僕はいまも忘れることができない。  現場検証を終え、僕は警察署へと連行された。  警察署では、左右と正面と三方向から写真を撮られ、全ての指の指紋も採られた。そして取り調べを受けた。取り調べを受けている間、  「高校二年生、無免許運転で人身事故」  という新聞の見出しが、何度も僕の頭の中にチラついた。  「いいか、嘘だけは言うなよ」  尋問の担当の警察官からは、何度もそう言われた。その都度「はい」と答えた僕だったけれど、実は一つだけ嘘をついていた。それは、車には僕一人しか乗っていなかったということだ。  取り調べは一時間ぐらい続き、やがてもう取り調べも終わりそうな雰囲気になった時、警察署内がざわついた。僕を尋問していた警察官が、「ちょっとここで待ってろ」と、慌てたようすで部屋を出ていった。数秒してまたドアが開き、その警察官が部屋に戻ってきた。そのままツカツカと、早足に僕の座る机まで来ると、バンッ!と、両手で机を叩いた。  「嘘だけは言うなと言っただろう!」  唾を飛ばしながら、警察官は僕をどやしつけた。  どうやら、モリヤマは良心の呵責か何かで、自ら同乗していたと名乗り出たようだ。僕ほど罪は重くないにしても、これじゃあきっと、モリヤマも高校を首になるだろうに…。その勇気と友情は評価するけれど、しかし、穏やかだった取り調べが、ここから一気に苛烈なものになった。一つ嘘をついたということは、全部が嘘である可能性がある。最初から繰り返し、何度も状況を説明させられた。その都度、「それも嘘なんじゃないだろうな」と念を押された。  厳しい尋問ですっかり憔悴したけれど、やっとなんとか取り調べが終わった。そこへ、僕の両親が現れた。警察から連絡を受け、僕を引き取りに来たのだった。僕は両親に連れられ、ようやく家路につくことができた。まだお昼ぐらいだったけれど、学校は休むことにした。  帰りの車の中で、僕は心から両親に謝罪した。深く反省しているとも伝えた。両親とも、怒鳴るでもなく、泣くでもなく、僕をなじるでもなかった。高校中退となるであろう僕のこの先について、冷静に考えるべきだと思っていたんだと思う。  僕は今回の無免許運転によって、免許の点数が十二点減点されるのだと警察官に言われた。さらに、「傷害」によって六点が引かれるとも言われた。だから合計十八点──。僕は免許を持つ前から、免許取り消し以上の減点を受けることになった。かつて交通安全のポスターで警察に表彰されたことなどは、もちろん考慮してもらえるわけもなかった。事故の相手の怪我は、全治二週間だと聞かされた。  次の日、学校に行くには勇気がいった。それでも、万が一にも学校にバレていない可能性に賭けた。新聞なんて滅多に読まなかった僕が、あの朝だけは、目を皿のようにして紙面をチェックした。幸い、少なくとも朝日新聞には、僕の起こした昨日の記事は出ていなかった。  僕にしては珍しく、強張った表情になってしまっていることに気づきつつも、できるだけ平静を装って登校した。校門をくぐり、廊下を歩きながら、すれ違う先生や生徒がみんな、実は昨日の事件を知っているのに黙っているんじゃないか?…という、疑心暗鬼にさいなまれた。  モリヤマも登校してきた。  「バレてないのかな?」  「いや、バレてると思う。いまバレてなくても、いずれすぐバレると思うよ」  僕らは退学を覚悟していた。僕もモリヤマも、終始うつむいたまま、震えるようにしてその日を過ごした。その次の日も、「いつ職員室に呼び出されるだろう?」という不安を抱えたまま過ごし、その次の日もまた、重たい不安は少しもおさまらなかった。  しかし、この三日間で、僕は合計三人の先生から事故について聞かれた。  「ちょっとこっち来い」  そんな感じで声を掛けられ、僕は「ついにきたか」と観念した。ひと気のない階段の踊り場なんかに連れて行かれて、「お前、あの事故どうなった?」とか、「相手の怪我はどの程度だ?」とか聞かれた。三人の先生が、ほとんど同じ感じで僕に話を聞いてきた。三人はいずれも、僕が現場検証をしている最中に、車であのクランクを通ったらしい。三人とも、「俺は黙っておくけどな」と、異口同音に自ら口外することはないと言ってくれた。僕に恩を着せるでもなく、自然にそう言ってくれた。僕は退学を覚悟していたけれど、そんな三人の先生の気持ちが、孤独と不安に苦しんでいた時間の中では大いに慰められた。  不思議なことに、僕はその一年半ののち、無事に高校を卒業することができた。  事故を目撃した三人の先生は、いずれも最後まで口をつぐんでくれた。怪我をさせてしまった相手も、ことを荒立てるようなことはしないでくれた。そもそも、その相手の男性は、それまでに交通事故に二回も遭っていて、そればかりか、三回も空き巣に入られているのだという。何度かお見舞いに行くうちに打ち解けてきて、僕が聞いてもいないのに、自分からそんな身の上話を聞かせてくれた。笑ったら失礼だけど、なぜかそういう目にばかり遭う、不幸なめぐり合わせの人らしかった。あの妙な声も妙な話し方も、頭を強く打ったからではなく、いわば“地”だった。  とにかく僕は、晴れて高校を卒業することができた。あの事故の他にも、タバコの喫煙が学校に三度バレていたし、そのうち一度は停学も食らった。また、あの事故よりも少し前に、実はすでに一度、無免許運転で補導されてもいた。そもそも、学科の単位も出席日数も、常に際どかった。そういったことは、僕の周囲の友だちはみんな知っていたから、卒業式では、「奇跡の卒業生」だとみんなに笑われた。  卒業式からの帰りみち、僕は何度もあの事故の朝の曇り空を思い出した。でも、ふいに空を見上げてみたら、あの日とは対称的な空だった。僕たちの卒業を祝福してくれているかのような、みごとな青空が広がっていた。? ■運転免許への道のり  高校を卒業し、自動車教習所へ通ってこれも卒業し、運転免許センターに合格した直後、センターの館内放送で僕の名前が呼ばれた。いまから合格者に、免許証を交付するという時だった。  放送で告げられた部屋に入ると、僕の免許合格は無効だと言われた。過去二年間の間に、無免許運転二回で二十四点と、その二回目での障害で六点と、合計三十点の減点があるため、二年間は運転免許が取れないのだと言われた。この日の合格にしても、その効力は一年間で切れてしまうので、いずれ失効するとのことだった。  なんて理不尽な…。  僕は落胆した。いや、不当だと思った。なぜなら、自動車教習所に入る際、僕はちゃんと確認していたからだ。 教習所に入所する際、病院でいえば問診票みたいなものを書かされた。その設問の中に、「過去二年間の間に、無免許運転が二度以上ありますか?」といった質問があったので、僕は正直に「はい」に○をつけた。それについては教習所の職員にも尋ねられ、「確認してみますが、もしかしたら教習は受けられないかもしれませんよ」と言われた。もちろん、僕はその覚悟で申し込んだ。むしろ、自分の運転免許に関する状況がはっきりとわからなかったら、教習所に申し込めば、「まだ免許は取れません」とか、「半年後にならないと免許は取れません」とか、具体的な状況が把握できるという狙いもあったのだ。  でも、教習所からは何も言われず、何ごともなく教習が受けられたし、無事に卒業もできた。だから当然、僕は免許が取れるものと信じて込んでいた。なのに、運転免許センターで思いもよらない現実に引き戻された。それも、僕の合格が正式に発表された直後だというのに…。  それでも幸い、僕にはわずかなチャンスが残されていた。地裁だったか公安委員会だったかの「聴聞会」なるものがあって、そこでの対応次第では、まだ免許がもらえる可能性があるというのだ。  本来、僕の免許合格の効力は、合格日から一年間で失われてしまう。でも、僕自身に特別な事情があってそれが認められた場合、二年の無効期間を一年に短縮できる可能性がある。そうなればギリギリ何とか、僕の免許合格の効力は残せる。そう説明を受けた僕は、いさんで聴聞会に出向き、全身全霊で「特別な事情」を演じた。  「高卒で不良あがりの僕を、いまの社長が拾ってくれた。ただ、『運転免許の取得だけは採用の条件』だと言われ、僕は免許取得を社長に約束した。免許がなければ、僕はせっかくの仕事を失い、社長の恩を裏切ることになってしまう」  そういうストーリーで演じた。社長の恩の大きさや、その就職話のありがたさを熱弁しつつ、時折、思わず目頭を熱くさせるような小芝居まで打ってみせた。僕の熱演の効果なのか、あるいはそこまで必死にならなくても、大概は赦免されるものなのか、いずれにしても、僕は聴聞会で失効期間を短縮することに成功し、後日正式に、運転免許を取ることができた。  でも、聴聞会で演じたストーリーには、もちろんかなりの嘘が混じっていた。  「社長」というのは僕の父のことで、ありがたい就職話というのも、父の経営する会社に入るだけのことだった。聴聞会では、それをことさら尊い話のように語ってみたけれど、実状は父から、「留学しないなら働け」と言われただけのことだった。  ちなみに僕は、教習所に通う直前まで、カナダへの留学を予定していた。現地の大学に、知り合いの教授がいる。その人に誘われて、僕は留学する気になっていた。でも、現地をみたうえで色々と考えた結果、留学するべきでないと判断した。バンクーバーのセンチュリーハイアットの最上階にあるバーで、ジャックダニエルを飲みながら僕は父にその意思を告げた。「そうか、わかった」父は頷いてから言った。 「だったらお前、来月から群馬に行け。新しい工場ができるから、そこへ行って仕事を覚えろ。そのためにまず、日本に帰ったらすぐに免許を取っておけ」  そういう流れで、僕は運転免許を取得したのだった。  実際、のちの群馬での生活において、車と運転免許は不可欠だった。だから聴聞会での熱演は、僕にとっては結果的に重大な大仕事だった。嘘を交えはしたけれど、司馬遼太郎先生だって「嘘は誠実につかねばならない。 だまそうとする場合、誠心誠意だまさねばならない」みたいなことを、たびたび書かれている。それに加え、多少の演技力もあった方が、物事がうまく運ぶ場合もあると思う。 ? ■ロッキーでロック!  あのとき死んでいてもおかしくなかった──。  そんな経験はいくつもあるけれど、その最たるものの一つが、このエピソード。  高校を卒業した年の夏、カナダ留学の下見のために、父と弟との三人でカナダへ渡った。  僕の入学予定だった大学のキャンパスや、その周辺の街並みなどをみてまわったあと、日程が余ったので、せっかくだから車でアメリカへ行ってみようということになった。車は、大学教授の知人が貸してくれた。シルバーのボルボだった。  当時の僕は、日本でも運転免許を持っていなかったけれど、現地での運転は僕の役割だった。弟は運転ができないし、そもそも普通免許が取れる歳でもない。父は右側通行で左ハンドルなんて面倒くさいと言い、「だからお前がやれ」ということになった。  いまの時代からみれば、さぞ恐ろしい家族だと思えるけれど、昭和後期のこの当時は、これぐらいのことは珍しくなかった。いや、こんな家族はあくまで少数派だろうけど、時代の空気的には、この程度のことで大騒ぎするようなことはなかった。とにかく、このアメリカ行きは、僕の運転ということになった。  カナダのアルバータ州を車で南下する途中、ハイウェイの周囲には菜の花畑が広がっていた。それも、半端じゃなく広大な菜の花畑が、地平線を埋め尽くしていた。空は青かった。道はひたすら真っ直ぐだ。だから僕の視界といえば、極めて単調な景色に占められていた。上半分が青で、下半分が黄色で、その黄色の真ん中に、グレーの三角形が置かれている。ただそれだけの、本当に単純な構図だった。おかげで僕は錯覚というのかなんなのか、同じ図形を見続けるあまり、車を走らせている実感が怪しくなってしまった。ちょっと大げさに言えば、頭がおかしくなりそうになった。  それでも何とか、アメリカとの国境付近まで南下し、国境超えを前に、その日はカナダ側のホテルに泊まろうということになった。  僕らが宿を求めた町は、カーズトンとかいう名前だったと思う。あとで聞いた話では、町の人のほとんどが、モルモン教徒という町らしい。でも、そんなことは特に気にならなかった。僕たち家族はその町で食事をし、モーテルに泊まった。僕のテキトーな英語でも、食事と宿泊ぐらいはできた。  翌朝、朝食をとると再び、僕たちは車での南下を再開した。  目指すはアメリカ合衆国だ。…といっても、単に「国境を超えてみよう」というのが目的だから、別に合衆国側に目的地があるわけでもない。  アメリカを目指し、ハイウェイをひらすら走り、やがて僕は生まれて初めて、「国境を超える」という体験をした。検問所みたいなところで止められ、僕のテキトーな英語でテキトーに対応し、父の国際免許を提示したら、相手の米国人は僕のものだと思ったらしく、あっさりとアメリカに入国させてくれた。  モンタナ州に入り、ただ道なりに走っていると、やがてロッキー山脈の登り坂に差し掛かった。そのままロッキー山脈を昇ること二時間ぐらい、ひたすらクネクネした登り坂を走った。やがてピークを超えると、今度はひたすら下り坂になった。父も弟も、すっかり寝入っている。僕はロッキー山脈のクネクネした下り坂を、一人無言でハンドルを握り、下り続けた。やがて、「これだけ下りばっかりなら、エンジンかけとく必要なくね?」と思い、エンジンを切った。僕なりに、燃料を節約できると安易に考え、あとはブレーキとハンドルだけで、ひたすら下り続けた。  二十分ぐらいそうしていると、ある瞬間から急にブレーキが効かなくなった。それどころか、ブレーキペダルを踏んでも、スカスカするばかりでまるで反応がなくなった。  「ペーパーロック現象」  そんな現象があることを思い出した。もちろん、すでに僕の心臓はバクバクだ。ブレーキは効かず、車はさらにスピードを上げて坂を下り続け、連続するコーナーを曲がり続ける。「キューッ」というタイヤの悲鳴が大きくなり、白い煙を吐くようになった。僕の手の汗で、ハンドルはぬるぬるになった。  ブレーキをあまり頻繁に踏み続けると、ブレーキパッドが熱くなり過ぎて、その熱がブレーキオイルに伝わり、ブレーキオイルに気泡が発生して、ブレーキが効かなくなる。それが「ペーパーロック現象」だ。まさにいま、僕の運転する車はその状態に陥ってしまった…!!  本気で死ぬと思った。ロッキー山脈でロック現象か…なんて考える余裕なんてもちろんなくて、次のカーブでガードレールを突き破り、数百メートル落下して死ぬのだと覚悟した。僕たち三人家族は、遠くアメリカの地で、スウェーデン製のボルボの中で死ぬんだ。お父さんよ、弟よ、ごめんなさい。小知恵をはたらかせたつもりが、とんでもないことになってしまった。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。…人生って、こんな感じで簡単に終わってしまうもんなんだな……。  諦めつつも、僕の出来損ないの脳みそは、それでも一所懸命にフル回転していた。  「エンブレだ!」  咄嗟に閃いた。すぐさま僕はキーを回してエンジンをかけ、シフトノブをサード、セカンド、ローと入れ替え、手早くギアを下げた。  ブゥオー!!  ものすごい音が鳴ったけれど、車は一気に減速した。ブレーキペダルを踏んでみたけれど、まだスカスカして反応はない。ということは、車を止めることはできない。そうとなれば、なんとかここは、エンブレでしのぐしかない。  自らが招いた危機とはいえ、あの時の僕のシフト操作、ハンドル操作は、ちょっと人に褒めてもらってもいいぐらいに冴えていたと思う。ローとセカンドを頻繁に切り替え、次々と迫るカーブを切り抜けていった。やがて、次第ブレーキペダルに反応が出始めた。ようやく、ブレーキオイルが冷えてきたのだろう。それでもまだ、安心はできない。ブレーキは適度に使いつつ、エンブレを多用して坂を下り続け、やがて僕は、なんとか無事にロッキー山脈を下り切った──。  本当に怖かった。本気で死ぬと思った。神様やご先祖様に感謝した。人は生きているのではなく、生かされているのだ…なんて、神妙に考えたりもした。でも、日本に帰った頃には、そんな神妙さはすっかり抜けてしまっていた。  その後も僕は、自らの愚かさや奇行によって、何度も死にかけた。その都度、「神様、仏様、ご先祖様、僕を生かして下さってありがとうございます」なんて、本気で感謝するのだけれど、しばらくするとまたつい、おかしなことをやらかしてしまう。根っからの奇行派なのだろう。  こんな僕なので、きっと畳の上で死ぬようなことはないものと覚悟している。 ? ■夕陽に別れを告げて  こうして昭和の少年時代を振り返ってきた過程において、それぞれの思い出ごとに、そのときどきに聴いた音楽が頭の中に流れることが多かった。  最後の章を書き終えようといういま、僕の頭の中に流れているのは、サザンオールスターズの「夕陽に別れを告げて」だ。高校二年生の時に「KAMAKURA」というアルバムが発表されて、修学旅行のときにずいぶん聴いた記憶がある。「♪ あの日々はもう帰らない」のは当たり前だけど、だからこそ、過去の記憶への切ない思いが揺り起こされる。僕にとって、そんな感傷的な気持ちになってしまう曲だ。  昭和の後期に育った僕にとって、これらの思い出はつい「青春」という言葉でくくりたくなる。でも、平成という時代において、「青春」という言葉が聞かれることは滅多にないし、「青春」と呼ぶに似つかわしい光景を目にすることも、ほとんどないように思える。「平成」と「青春」とは、大げさにいえば、水と油ぐらいの隔たりさえ感じてしまうぐらいだ。  半年ほど前に近所の公園で、高校生たちが元気に遊ぶ姿をみた。学生ズボンに白いワイシャツという格好だから、みんな学校帰りなのだろう。彼らはサッカーボールを追って、日が暮れるまで元気に公園を駆け回っていた。 (平成の世にも、青春っぽい光景はあるんだな…) 僕は犬の散歩をしながら、彼らを見て微笑ましく思った。でもその数日後、「公園での野球・サッカーは禁止」という立て札が立てられた。それを見て僕はなんというか、ガックリと肩を落としながらも、その一方で、ふつふつ怒りが込み上げてきた。 市役所の都市計画課に電話してみると、「近所の住人からの要望」で立てたという。「近所の住人」とは一体誰なのか? 本当に、近所に住む人であるという証拠などないはずだ。こういうのは大抵、仕事もせずに昼間から公園で酔っ払っているような連中の仕業が多い。しかも、立てた理由は、「ボールを追って道路まで飛び出されたら危ない」ということだった。なんと暗い世の中になってしまったのだろう…。  僕はやはり、NHKを含めた地上波テレビが悪いと思う。「電波」は公共財であるのに、数十年にわたって数社だけが独占し、私物化し、そればかりか世論誘導まで仕掛けてくる。昼間は通販番組をダラダラと垂れ流し、ババアのウンコがスルッとドッサリ出るサプリなんて、みた瞬間に吐き気をおぼえる。かと思えば、「情報番組」と称しながら、コメンテーターとかジャーナリストなる者が平然とデタラメを言っている。いわゆる「ネットリテラシー」で、そんな嘘はすぐに見抜ける。ましてや、何が悲しくて自称「お笑い芸人」なる連中から、政治に関する意見を聞かされなければならないのか…。 昭和後期の民放テレビは、もっと健全で面白かった。国民全体で共有できる文脈があったし、「踊るポンポコリン」みたいな国民的ヒット曲など、“国民的”規模の潮流をテレビは生み出せていた。少なくとも、視聴者を騙そうという意図は、平成のいまほどはみられなかった。新聞も同じで、かつては新聞を読めば、事実や真実を知ることができた。「昭和」と「平成」の最大の違いとは、この二つの時代における世の中の空気の違いとは、大手マスメディアの誠意の有無にあると僕は考えている。  …なんて、エラソーに言えた義理ではなかったか…と我に返ったところで、僕の奇行と悪事の数々をあらためて読み返してみた。すると、やたら「夕陽」とか「夕焼け」なんて言葉が多く出てくることに気がついた。昭和の過ぎ去りし思い出は、なぜか夕陽に染まった情景で思い出されるようだ。 ■書き加えるべき近況  最後の章を書き終えたつもりが、つい先日、書き加えねばならい事件が起こったので加筆する。  僕は東京への出張の際、いつも浦和の実家というか、母の家に泊めてもらっている。  先日も東京に出張があり、二泊ほど母の家でお世話になった。  二泊目の朝、僕は都内に出て用事を済ませ、夜は父と姉と食事をし、酒を飲んでから別れた。  母の家の最寄り駅である北浦和駅を降りたとき、少し飲み足りないと感じた僕は、駅の近くのバーに立ち寄ることにした。母の家は駅前エリアにあるから、寄り道をしても歩いて二分ほどで帰れる。  バーボンのロックを数杯飲んでからバーを出て、母の家を目指して歩き出すと、一分と経たず吉野家の前に出た。僕はつい吸い込まれてしまい、仕上げに牛丼を食べた。牛丼特盛+生卵を食べ終えて再び母の家を目指して歩き始めると、ふいに猛烈な便意に襲われた。とはいえ、僕の場合はそんなことは日常茶飯事だ。こらえ切れずに漏らしたこともあったけれど、嫌というほどこうした際どい場面を経験している。だからウンコが我慢できる限界は、ほぼ正確に判断できる…はずだった。  (これなら母の家までに十分もつ)  そう自信を持って歩き続けた。しかし、あの夜に限っては、僕は判断を誤ったようだ。歩を進めるほど、グイグイと便意が強まり、急速に状況は切迫してきた。  (さすがにこれは危ないか…。いや、母の家はもうすぐだ…)  真冬だというのに、額から冷や汗が流れた。  全身の力を肛門に込め、必死で歩いた。そうしてなんとか、母の家の前にたどり着くことができた。  (よし、乗り切った)  そう安堵して手にかけたドアが、どうしたわけか開かない。母からは「鍵は開けておく」と聞いていた。でも、手前に引いても押してみても、ドアはどうにも動かない。  再び、不安が僕を襲った。  (どうしよう。母はさすがにもう寝ている。起こそうにもこんな時間だし、呼び鈴もないし、かといって電話で起こすのもどうか。いっそ、近所の飲食店にでも飛び込むか。いや、もう、肛門の防衛線ギリギリまできている。このドアを何とか開けるしかない…)  頭脳を激しく回転させ、この危機を回避する方法を考えた。考えながら無意識に動かしていた右手が、どうした弾みか、反対側のドアを開けた。  (そうだった! ドアは左じゃなく、右側を開けるんだった!)  ホッとした瞬間、我が肛門も明らかに油断したのがわかった。油断した肛門は、あたかもすでに便座に座り、本番を迎えたかのように堂々と開門してしまった。パンツの中にボトボトと、物体が押し出されるのを感じた。 (ここまでこらえたというのに…)  僕はその場で泣きたくなった。…しかし、最悪だと思ったこの時点は実はまだマシな段階で、ここからさらに、泣きたくなるどころではないレベルにまで事態は悪化してしまう。  あの夜の僕は、確かに酔っていた。酔ってはいたけれど、奇行をかましたうえで記憶をなくすほどには酔っていなかった。ただ、するべきことをせず、不覚にも眠ってしまったのが大失敗だった。  玄関前でウンコを漏らした僕は、「まずは落ち着け」と自分に言い聞かせた。ベルトをはずし、かがんだ状態でスーツのズボンを膝あたりまで降ろしたとき、信じられないことが起こった。パンツの中にドボドボと、残りのウンコが漏れ出てしまったのだ。さらには、パンツの中に収まり切らず、ボロボロと床に転がり落ちてしまった…。  僕は泣きたいどころか、その場で舌を噛んで死にたくなった。パンツを脱いで済む話ではなくなってしまった。自分で自分が許せなかった。  それでも、ここは腹をくくって事後処理をしなければならない。僕は半泣きになりながらも、靴、ズボン、パンツと脱ぎ、とりあえず、玄関先にそれらを置いた。なにせ、とにかく尻が気持ち悪い。早くシャワーを浴びて、汚物まみれの下半身をきれいに洗いたい。そのうえで、しっかりと事後処理をしよう。  母の家に入り、すぐにシャワーを浴びた。尻もスッキリし、冷え切った身体も温まり、新しいパンツに履き替えたことで、すっかり気分もリフレッシュできた。…が、そこからがいけなかった。スッキリ気分でいい気になった僕は、あろうことか、そのまま眠りに就いてしまったのだった……。  翌朝目が覚めると、母が何とも複雑な眼をして、無言のまま僕を凝視していた。  ゲッ……!!  僕は即座に思い出した。そうだ! ウンコを片付けるのを忘れていた!!  ついさっきまでグースカと眠っていた僕のお気楽さとは対称的に、母は絶望的な現実に直面させられていたに違いない。早朝に目を覚まし、新聞を取りに玄関へいくと、いつもとようすが違う。男性用の靴が転がり、その脇に男性用のパンツが落ちている。しかもそのパンツには、一見して汚物とわかるものが付着している。それどころか、汚物そのものが周囲に散乱している。ふと見れば、そばにある自転車に、スーツのズボンが無造作にかけられている。  (まさか…!!)  母にとって、悪夢だったに違いない。  我が息子が、それも、今年で五十歳になろうという息子が、自分の家の玄関にウンコを撒き散らし、衣類を散乱させている。しかも、財布やら大事なものが入っているであろうバッグまで、その場に放置されているではないか…。  「あいつはついに狂ったか……」  母は、絶望感に耐えつつ片付けを済ませると、室内に戻り、まじまじと息子の顔をみた。母親にとって、この事態がどれだけショックであるか…。そんなことはお構いなしに、息子は高いびきを響かせ眠り続けている。  「起きたらすぐ、精神科へ連れて行こう」  本気でそう思ったらしい。  やがて僕は目を覚ました。目覚めてすぐに見た母の眼には、怒り、不安、混乱、絶望…その他、さまざまな負の感情が込められていた。  「すいませんでした!」僕は即座に頭を下げた。  そして、できるだけ冷静を装い、また、深く反省している態度を示しつつ、ことの顛末を母に説明した。なにも気が狂ってウンコを撒き散らしたのではないのだと、一所懸命に説明した。酔っ払ってしでかしたのではなく、あくまでこれは事故なのだと力説した。 母は半信半疑ながら、一応は納得してくれたようだった。でも、別れ際まで、表情は浮かなかった。  お母さん、本当にすみませんでした。  数週間して、スマホに母からのメールが届いた。  「まだ玄関を通る時、お前のウンチの匂いが残っているような気がします」 (完)  …おっと、ここで緊急速報!  母のメールでこの話はフィニッシュ…とホッとした瞬間、またもや肛門が緩んでしまい、屁が漏れてしまった…と思ったら、屁ではなくビチグソだった模様。  これが作り話のオチならよかったけれど、本当のことだから我ながら情けない。  椅子から尻を浮かせた状態ながら、今度こそ本当に、最後の章を書き終えます。 (本当に完)